年の暮、年始の古歌

 
 恒例「迎春・年賀の万葉」に加え、今年は年末年始の古歌(万葉・古今・新古今)のいくつかを教材にする予定である。
     
  万葉集から【賀状に添える歌】の紹介
 
新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは(巻十七・3925)葛井諸会
 
あしひきの山の木末のほよ取りて挿頭しつらくは千年寿くとそ (巻十八・4136)大伴家持

正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも (巻十八・4137)大伴家持

新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが (巻十九・4229)大伴家持

降る雪を腰になづみて参り来ぬ験もあるか年の初めに (巻十九・4230)大伴家持
 
新しき年の初めに思ふどちい群れて居れば嬉しくもあるか (巻十九・4284)道祖王

初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒 (巻二十・4493)大伴家持

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事 (巻二十・4516)大伴家持
 
   
【歳の暮れ】古歌
  時間を循環するものと捉えていた古代の日本人は、新年になることを「年たちかへる」と言い慣らわし、また新しく振り出しに戻ったと考えた。人は同じ時間を再びやり直せるものではなく、時を重ね老いてゆく、螺旋のコースを辿るように。年々歳々同じ季節の姿を眺めて過ごしながら、年の一巡ごとに生き物はひと刻みずつ確実に命の終わりに近づいてゆく。この一年、ひと巡りが終わる歳末の気忙しさには、新年を迎える仕度に伴う生活上の繁忙のほかに、知らず知らずに命の残りを思っての忙しなさが添っている。
 第一勅撰和歌集にして最高の完成度に達した『古今和歌集』に、歳末を詠んだ歌は
五首採られていて、そこでも年末の感興として詠まれている要素は
 ・過ぎゆく時間の速さを惜しむ心
 ・時とともに移ろう定めなき世の中
 ・暮れゆく年に身をなぞらえた老いの嘆き
ものへまかりける人を待ちて、しはすのつごもりにてよめる  躬恒
    わが待たぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人はおとづれもせず(巻六・338)
年のはてによめる                         在原元方
    あらたまの年のをはりになるごとに雪もわが身もふりまさりつつ(巻六・339)
寛平御時妃宮の歌合の歌                 よみ人しらず
    雪降りて年のくれぬる時にこそつひに゜もみぢぬ松も見えけれ(巻六・339)
  年のはてにてよめる                       春道列樹
    きのふといひけふとくらしてあすか川流れて早き月日なりけり
  歌奉れとおほせられし時によみて奉れる           紀貫之
    行く年の惜しくもあるかなます鏡見るかげさへにくれぬと思へば
 
 
 「歌奉れ」と仰せられし時に、よみて奉れる     紀貫之
行く年の惜しくもあるかなます鏡見る影さへにくれぬと思へば
(去ってゆく年の何と惜しいことであろう。歳が暮れ、時が過ぎて、鏡に映る私の姿もまた老いて、光失せて思えるものだから)   (『古今和歌集』巻六・冬・三四二)
 こうした時間の捉え方に基づく歳末観は、『古今和歌集』以前からあり、長く踏襲されてきた。小琴が師事した阪正臣の和歌
 歳暮によめる
をしめどもいまはかぎりとくれ竹のくれ行く年をいかにかもせむ(『耕餘漫草』巻四)
       歳暮夢
あらたまの年立ちいそぎする頃はゆめものどかにむすばざりけり (『手ならひの種』一)
       歳暮近
いまはとて年もくるゝをいそぐらむ煤はく音のきこゑそめたる(『時時集』)
 
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