義経の忠臣「佐藤継信」

芭蕉は「奥の細道」の途次、福島で佐藤庄司(継信の父)の墓に泪する。讃岐屋島に来ていたならば、必ずや継信の墓に詣で、再び泪を流したにちがいない。         
 
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 治承4年(1180奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経随行義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月19日の条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、千株松の根元に葬った。また毎回戦場で乗っていた名馬「太夫黒」を僧侶に与えた。 (佐藤氏の菩提寺である医王寺 の継信の石塔には享年36とある)高松市牟礼町洲崎寺に継信と太夫黒の墓がある。