義経の身代り佐藤継信の墓碑
義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことはない。ただ、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」と答えて亡くなった。
『奥の細道』 ~飯塚~
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の宿鯖野と聞て尋ね尋ね行くに、丸山と云に尋ねあたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞えば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟
笈も太刀も五月にかざれ帋幟
継信の出身地である福島県飯坂の皆さんのご厚意により上掲顕彰碑が
昭和60年にすでに建立されている。