観音寺市内戦跡

    観音寺市内戦争遺跡編
 はじめに
戦後七十年を過ぎた平成の今、市内に遺されている戦争遺跡を記録し、後世に伝える機運が生じた。ここにその主なものの概略をまとめ、戦争に翻弄された郷土の実状を知る一助にしてほしいと願う。
本書では主としてこの度の太平洋戦争に関するものが中心になっているが、明治期日露戦争のものも除外しないようにしている。
我が郷土にも語り尽くせない戦争遺話が伝えられ、各所に戦争遺跡が点在している。その中で目に見える形として遺されている戦跡に限って記述する。細部にわたっては別途述べることにして、主な数項目にしぼってその概略を記すことになる。
なお、「戦争遺跡」とは、普通次のように定義されている。戦争の痕跡、戦争のために造られた施設、戦争で被害を受けた建物など、現在もそのままないし遺構として残っているものを含むものである。
平成の今、郷土に埋もれ忘れ去られていこうとする戦争遺跡。かつての戦争の時代を黙して語らない遺跡をあえて明確に提示し。後の世にも確実に伝えられることを念じるものである。
 一、観音寺海軍航空隊
 〔開隊の経緯〕
昭和十八年(一九四三)四月、観音寺に海軍航空隊の軍事用飛行場の築造が始まった。柞田村出在家(上出、中出、下出)と常磐村出作南、紀伊村木之郷、栗井村出晴、豊田村池之尻に及ぶ広大な地域。この全域を呉海軍施設部により測量が実施された。
 昭和十九年一月、この該当地区の関係者が柞田国民学校講堂に集められ、強制立ち退き移転の説明を受けた。この至上命令に従い、各家において移転先を決め、住み慣れた土地を捨て、家屋家財一切を運び出さねばならなかった。共同移住の計画もうまく運ばず、個々人において身寄りを求め移転していった。当時は働き盛りの男性は出征している家が多く、立ち退き移転の労力が不足し、期限もあって慌ただしく辛酸を嘗める月日だった。
 移転した跡地には待ち構えたように飛行場造成工事が始まった。一番大切なのは滑走路で、東西に貫く長さ一五〇〇㍍、幅五〇㍍、厚さ三〇㌢のコンクリートを敷きつめる大工事が始まった。
 その頃特攻機が飛び立つ前進基地が必要視されるようになっていた。更にその訓練飛行場が観音寺だった。第一国分飛行場を実施部隊に引き渡した国分空の受け入れ先となり、新たに観音寺が組み入れられた。実施部隊編入後は、乏しい燃料のために訓練を切り詰めつつ、特攻訓練を鋭意実施していた。他の中練部隊と連合して編成した中練特攻隊の中に観音寺からの選抜者もいて、かつて基地としていた第一国分飛行場に展開していたとする説もある。幸いにも観音寺空の中練特攻隊が特攻出撃する前に終戦を迎えた。
 飛行場は未完成のうちから「赤トンボ」の愛称で呼ばれた練習機が飛行訓練をしていた。離陸・着陸・回転飛行等、周囲からも住民が眺めていた。その格納庫が軍用道路添または神社境内等に隠されていた。
当飛行場をあらためて歴史的に回顧すれば、まずここが陸軍特別大演習の臨時飛行場になったことがある。大正十一年十一月、昭和天皇が摂政の時である。高松近郊の林飛行場が東軍、そして西軍がここ観音寺飛行場で、東西対抗の陸軍大演習が一〇日間行われた。稲刈りを終えた中出中心に水田一九・ニ㌶で、この時六万人を超える見学者があった。三豊平野の真っ直中、滑走路の東西標高差はわずか ㌢の平原である。この度の戦争で白羽の矢が当ったようだが、過去の経歴もあってのことだった。
 〔飛行場及び関連施設区域〕
柞田村甲番地(出在家)、常磐村出作南、紀伊村木之郷、豊田村池之尻、粟井村出晴・常次他(一部)
 設営隊の本部は粟井村出晴(旧給食センター付近)に置かれた。飛行場内には各種施設がせつえいされていた。飛行機指揮所、防空電信室、電話交換室、保安隊兵舎、砲台弾庫、各科倉庫等、主として木之郷母神山側にあった。
砲隊員宿舎は飛行場区域内の北西よりに建てられていた。近くの紀伊小学校には仮設兵舎が建てられ、特務兵が常駐し、労務作業の指揮監督に当っていた。飛行場建設労働者の宿舎が双児池堤防下に建てられていた。周辺の各町村から飛行場設営のため、毎日動員され奉仕作業を続けたのは言うまでもない。
 飛行場外東南地域の出晴から更に山へ向かって常次に無線通信所、更に粟井神社下に向かって兵舎が造られていた。長尾谷兵舎・射場兵舎である。ここには対空監視哨が置かれていた。更にさかのぼって藤目山にも兵舎が建てられていた。司令は副官とともに神社社務所に宿泊していた。
 =今も残存する主な戦争遺跡=
 【防空壕
 米軍艦載機グラマンにより度々空襲を受けた。その避難に使用されたのが防空壕である。
 母神山南面防空壕 母神山中腹にある須賀神社への坂道が通じている、その登山口付近にある。他の壕より大きく、入口高さ二㍍、横幅二・五㍍。現在封鎖され中に入れなくなっている。伝承記録によると、長さ二五〇㍍掘られていたとも言われるが、現在調査確認できない。
 母神山西面防空壕 千尋神社北に三ヵ所がほぼかたまっている。いずれも横穴式で物資の貯蔵庫または人の待避所として使われていたと思われる。ここも現在入口は封鎖されている。
 出晴防空壕 旧給食センターの位置には施設部事務所があった。その東南に二つ単独の防空壕が残されている。小さな盛土山で出入口は各四ヵ所ある。所在位置から施設部関係者の退避壕であった。
 【滑走路断片】
今は取り壊されて全貌を見ることができない。
敷き詰められていたコンクリートのブロック状破
片でかろうじて当時の実態を偲ぶことはできる。
最も分かり易い滑走路最西端。下出大池堤、井戸
の側面を築いている。一方、滑走路の東端(出作
南)では個人の家庭排水路側面にこれを利用して
いる所も旧国道筋に見受けられる。戦後持て余し
た滑走路のコンクリートであった。
 【軍川】
 飛行場の西側南北の境界として当時建設された。排水路
として改修され今も使用されているが、高低差が少なく流
れにくい。天然の柞田川と加儀田川に挟まれた飛行場。そ
の西端軍川は横に流れる人工の川である。戦後昭和四十五
年補修された。中部中学校の横を流れ、出作町南北の真中
を流れる加儀田川と合流、一ノ谷川に注ぐ。
 【柞田一里塚】
江戸時代、伊予街道の一里毎に植えられていた一里塚の榎。
飛行場を作る際に伐採された。中出自治会により二代目の榎
が近年植樹された。伊予街道の一里毎にあったもので、本山
と豊浜の中間に柞田の一里塚があった。
常磐開拓紀念碑】常磐出作南にはこの地区の戦中戦後の労苦を中心に記念碑が建てられている。
 【若宮神社】飛行場きたのはずれにあり境内社務所で飛行
機の部品が組み立てられた。勤労奉仕の人々によるところ
が大きい。木蔭には赤トンボが隠されていた。
 【被弾痕】
常磐出作北の薬師堂仏像(通称雲祥さん)には
グラマン機による機銃掃射で住民が何人か負
傷した。その時の流れ弾に当たった弾痕が南
自治会館前の石像に弾痕が残っている。
 【飛行機司令塔】現在西部養護学校のある位置に飛行機司令塔があった。
半地下の頑丈なコンクリート造りで、戦後破壊除去に困って、逆にここ
の湧水を利用してこの周辺田地の水利用に改修することになった。戦後
昭和三十年代まで周囲からよく見えた建物である。
 二、 雲辺寺ヶ原陸軍演習場
 明治三十五年建設以来、主として第一一師団の山砲砲兵射撃場として使用されていた。その範囲は五郷村内野々、紀伊村福田原、更には粟井村奥谷方面に広がる三九七㌶(約四〇〇町歩)であった。
訓練兵の宿舎は、五棟南北に長く並んで建てられ、白方村の捕虜収容所を移転した棟も西側にあった。軍馬の厩舎も併存して建てられていた。                                 
 【雲辺寺ヶ原陸軍演習場】
 明治三十五年建設以来、主として第一一師団の山砲
砲兵射撃場として使用されていた。その範囲は五郷村
内野々、紀伊村福田原、更には粟井村奥谷方面に広が
る三九七㌶(約四〇〇町歩)であった。訓練兵の宿舎は
五棟南北に長く並んで建てられ、白方村の捕虜収容所
を移転した棟も西側にあった。軍馬の厩舎も併存して
建てられていた。岡の上には明治の総指揮者乃木将軍
の腰掛け松(乃木松)があった。                                       
 【監的哨】の説明板には次のように記されている。
 雲辺寺山(海抜九一一㍍)の北西山麓に広がる丘陵地帯を雲辺寺ヶ原と称している。約四百㌶におよぶこの台地は約百二十万年前(新世代更新の時代)地殻の大変動によって、山の中腹から削り剥がれた岩礫が堆積してできた洪積層台地である。それ以来灌木の密生する緑の丘として住民に親しまれてきた。
 明治二十八年日清戦争に勝利を得た日本は富国強兵を国是として陸軍の増強を図った。翌二十九年善通寺に陸軍第一一師団が設立され初代師団長として乃木希典が赴任した。明治三十三年にはこの雲辺寺ヶ原が第一一師団の射撃場の候補地として挙げられ、住民と再三にわたる交渉の結果、翌三十四年には
陸軍要地となり、以来四五年の間(~昭和二十年)山砲の射撃場として砲声が谷間にこだました。
 この広場は昭和初期の頃建設された監的所(イ)であり、同時に建設された(ロ)(ハ)の監的所の三地点で砲弾の着弾地点を観測していた。また、各監的所と発射地点は電話で結ばれていた。昭和二十年太平洋戦争の終結とともにこの軍用地は大蔵省の所管となり農林省の指示のもと、一部は民有地となり、残地は町有地に移管され今日に至る。
 かつて四十有余年の間砲声の轟いていた台地は今また静寂と平和を取り戻し、緑の台地に生まれ変わって、住民の憩いの丘となり、今や観光の拠点となっている。  
 【豊南中学校跡】福田原のこの場所は陸軍練兵場の跡でもある。その兵舎を戦後の豊南中学校が使用していた

 三、陸軍船舶幹部候補生隊豊浜暁部隊
 【開隊の経緯】
太平洋戦争当時「陸軍船舶幹部候補生隊」があった。秘称「暁」部隊は豊浜町一ノ宮公園隣接の富士紡績を兵舎として開設された。昭和十九年年四月二十九日より終戦まで約五八〇〇名の将兵がここで訓練された。隊員の年齢は二二~二三歳でほとんどが学徒出陣(大学、高等専門学校在学中の学生)だった。
  戦局の頽勢により下士官将校幹部候補生隊は、次第に特攻作戦に組み込まれていくことになる。二五〇キロ爆雷を積んだベニヤ板張りのモーターボートで敵艦に突入する船舶特攻の一翼をになうことになる。昭和二十年一月九日の比島リンガエンにおける第一二戦隊の出撃を初め多くの海戦で犠牲者を出した。一の宮に建立されている留魂像下にはここで訓練に励み激戦地に派遣され戦死した隊員の二五〇名の名籍が祀られている。
 豊浜町姫浜富士紡績会社を接取。秘匿名「暁部隊」であったので、広く知られことはなかった。一の宮海岸、燧灘沖を演習地していたので、地域の人々にはよく知られていた。
 全国各地から集まった候補生たちは、豊浜町民の温かい目で見守られていた。かれらは一宮海岸、無事紡績グラウンド、瀬戸内海の海上で日夜厳しい訓練に励んでいた。手旗信号、号令調整、操船術の学科と実施、敵中を突破し海上輸送完成の訓練がなされていた。町民も軍属として幹候隊の使役に進んで従事して、女子挺身隊の人々は筆生として軍務に励んでいた。
 〔豊浜町内における暁部隊の位置づけ〕
『新修豊浜町誌』(平成七年刊)「歴史」の部に「陸軍船舶幹部候補生隊」の紹介があり、概略次のように述べられている。
 昭和十八年四月二十九日、富士紡績(株)豊浜工場と和田東部国民学校の校舎の一部が徴用されて、広島市宇品に創設されていた陸軍船舶練習部幹部候補生隊が豊浜に移駐し、この地に教育隊として開設された。船舶兵の養成は、同年に工兵の一分科である鉄道工兵が鉄道兵として創設され、その後船舶兵として独立の兵科となった。その幹部となる将校を養成する目的で船舶幹部候補生隊が創設された。
 翌年三月、船舶隊の増強をはかることになったが、人員が不足、船舶工兵科出身者が少なくて、ほかの兵科(戦車・自動車等)から転科をはかった。
 また、全国の各部隊の甲種幹部候補生合格者から選抜され、船舶隊の幹部将校を育成するために幹候隊を設け、その教育を始めた。
四月二十九日、豊浜移駐初代隊長古元少佐が就任した。幹候一〇期生から一三期生まで、特甲幹一期をふくめて約五八〇〇名の船舶部隊将校の卵がここで教育された。全国各地から集まった幹部候補生たちは、豊浜町民の温かい目で見守られていた。彼らは一の宮海岸、富士紡績(株)グラウンド、瀬戸内海の海上で日夜きびしい訓練に励んでいた。手旗信号、号令調整、操船術の学科と実地、敵中を突破し、海上輸送を完遂するためには、強行突破、快速突破、隠密突破が必要とされる。これらの訓練を瀬戸の海で繰り返し実施し、陸軍水上特攻隊として肉迫攻撃を敢行する素地をつくった。
 町民も多くの人々が軍属として、幹候隊の使役に進んで従事し、女子挺身隊の人々は筆生として軍務に励んでいた。また、休日には遠く全国から来ている候補生のために、多くの民家では、幹候生のために心のこもったもてなしをしていた。日夜厳しい訓練を受けていた候補生たちは、しばし家庭の雰囲気を味わうことができた。
 陸軍の軍人・兵器を舟艇によって陸揚げ上陸するか、その船舶工兵としての実践、煎じ詰めればエンジン教育、海を越えて島に無事輸送する、その技法の習得養成が最低要請されていた。普通の兵卒以上の幹部候補生養成という名称に魅力を感じての志願もあった。ただ強制された訓練ではなく、率先して行う気概は溢れていた。また、直面する時代の趨勢から「挺身隊」への移行が予感されていた。
 【留魂像】
 一宮公園の松林の中に当時を偲ぶ記念碑「留魂像」
「ヨーソロ(宜候)」と右手を高く掲げて指揮を執っている候補生の雄姿を象った像である。
 この像の台座(大発動艇を模したもの)の下の収蔵庫には戦没者名簿=名籍(散華の英霊二五四柱、戦後物故の戦友九〇柱)を納めている。その後も豊浜会員の物故者名を加えて永久保存しているのが「留魂録」である。
 向かって右前には、この趣旨・由来を刻んだ案内説明碑文「留魂碑」が建てられている。
 向かって左前には、舟艇用に使われていたのと同じ大きさの「碇」が置かれている。
 建立地は一宮神社の併設地、グランド傍らの松林の中にあり、六六㎡の敷地で、ここに高さ一八〇㎝の留魂像本体を設置建立している。
 〔碑文〕 陸軍船舶候補生隊ハ昭和十九年四月ヨリ
終戦二至ルマデ豊浜ニ駐屯セリ。船舶兵ハ第一
線ニオケル海洋機動力ノ主体トシテ挺身難二赴
キ全軍ノ人柱トナルベキ使命アリ。隊員ハ深ク
之ヲ肝二命ジテ日夜鍛錬二励ミ業ナルヤ将校ト
シテ陸続前線身ヲ投ジ激戦ノ間燃ユル生命ヲ祖
国二捧ゲ手テ不帰ノ客トナリシ勇士マタ少シトセズ。イマヤ戈ヲ収メテ星霜四十ヲケミシ往時慟哭ノ記憶漸ク風化セントスル二際シ隊友力ヲ合セ舟艇上二指揮ヲ執ル候補生像ヲ思出深キ此ノ海岸二建立シ英霊ノ名籍ヲ像下二納メテ鎮魂ノ祈念ヲ秘メ永ク後世二伝フル事トセリ。
   昭和六十年十月十四日豊浜会
   豊浜暁部隊富士紡績駐屯…留魂像・錨・碑文・富士紡績外壁一部
 当時は香川県三豊郡豊浜町姫浜にあった。隣接する一の宮海岸は、一の宮公園として地域の人々に親しまれている景勝地である。
  昭和十九年四月一日豊浜工場、陸軍船舶隊訓練基地として徴用」(『富士紡績百年史』)とされている。
 戦時中暁部隊の兵舎となったが、戦後復帰して六〇有余年、「富士紡」として地域の人々に親しまれたが、現在は取り壊され、この広大な地は新しく太陽光発電所に変貌している。
  《参考資料》
『あかつき』 陸軍船舶幹部候補生隊の年一回の会報 通巻一九冊
~豊浜会会報~昭和五七年第一号~平成十八年第二十二号 

  第四章 軍人墓地・記念碑
 戦時中、戦没者は町村毎に町村葬を行っていたが、軍人墓地が一ヶ所とは限らない。町村毎に同軍人墓地が一ヶ所にまっているのは、旧豊浜町・柞田村・豊田村常磐村で、旧観音寺町・大野原等は分散されている。当時は町葬・村葬が町村挙げて行われていた。なお、各町村の軍人墓地は地区毎に分散され、一般墓地に併設されているところもある。
 近年とみに軍人墓地は危機に瀕している。歯が抜けたようにところどころ墓石が持ち去られている。遺族の高齢化、墓参の便利さであろうか、最近地区によっては撤収の傾向が見られる。  
★観音寺町軍人墓地 総持院境内   一六四柱 一八三名  撤収一五柱   
★柞田村軍人墓地  柞田小学校南  二二〇柱 二三〇名  撤収 一柱
常磐村軍人墓地  常盤小学校東  一六二柱 一六三名  撤収 六柱
豊田村軍人墓地  心光院南西   一三一柱 一三五名  撤収 〇柱
★豊浜町軍人墓地  豊浜中学校南西 一五一柱 一七八名  撤収三五柱
★ノ谷村 (吉岡三五柱・古川三六柱・江藤一三柱) 
★高室村  (高屋六〇柱・室本四九柱・新田二〇柱)  
★吹伊村  泉蔵院西         柱  名
大野原村 大野原小学校西 五〇柱 五〇名 撤収一四柱 その他各地区に分散
 【戦没者記名碑】
☆慰霊塔裏の旧観音寺町七六〇名 ☆慰霊塔前の新観音寺町七九〇名 
大野原町平和の塔五八九名(五郷六六名、萩原八二名、小山九四名、
  下組七一名、上之段九六名、花稲四六名、中姫六四名、紀伊七〇名)  
☆一ノ谷中田井町 三二名    ☆粟井町(粟井神社) 四〇名        
 【戦没詩人森川義信「勾配」詩碑】  粟井町本庄 森川生家前
高校現代文教科書(筑摩書房)・『日本名詩集成』(学燈社)に掲載     
非望のきはみ/非望のいのち/はげしく一つのものに向かって
誰がこの階段をおりていったのか/時空をこえて屹立する地平
をのぞんで/そこに立てば/かきむしるように悲風はつんざき/
季節はすでに終わりであった/たかだかと欲望の精神に/はたし
て時は/噴水や花を象眼し/光彩の地平をもちあげたか/清純な
ものばかりを打ちくだいて/なにゆゑにここまで来たのか/だが
みよ/きびしく勾配に根をささへ/ふとした流れの凹みから雑草
のかげから/いくつもの道ははじまってゐるのだ
 わずか十八行の短詩であるが、戦争へ時代が傾斜していく危機感と、ままならぬ青春の心の傾斜がはるかな地平と交叉して、「非望のきはみ」に内在するこの青春挽歌の痛ましさが感動を呼ぶ。昭和十四年(二十二歳)の作。三年後の昭和十七年八月十三日(二十五歳)ビルマのミートキーナで戦病死する。親友鮎川信夫編『増補森川義信詩集』は唯一の遺稿詩集で、現代詩の原点を築いた森川義信の決定版詩集である。国民文化祭かがわのオープニングで義信のもう一つの名詩「蜜柑」が全員で合唱された。
*鎌倉の近代文学館に貴重な関係資料は永久保存されている。

 【観音寺市内の主な戦争遺跡所在地】 遺跡めぐり①~⑬(車3時間コース)
①琴弾神社十王堂〔観音寺戦没者慰霊塔・戦没者名〕
②観音寺中部中学校西側〔飛行場境界の軍川〕
③柞田下出大池〔滑走路西端、池井戸の堤コンクリート破片〕
④柞田中出一里塚跡〔新植栽榎・説明板〕
常磐出作南自治会館東〔常磐開拓紀念碑〕
常磐出作北薬師堂〔仏像雲祥に被弾痕〕
⑦木之郷母神山南西横穴〔防空壕四穴、閉鎖され立入不可能〕
粟井出晴旧給食センター南西〔防空壕二山、内部瞥見可能〕
粟井本庄三七七号線添〔戦没詩人森川義信詩碑《勾配》〕
紀伊福田原旧豊南中学校跡〔善通寺師団訓練所跡〕
⑪萩原萩の丘公園山頂〔乃木松跡・平和の塔・大野原戦没者名〕
大野原雲辺寺ガ原〔陸軍実弾演習場《歴史広場》監的哨三ヵ所〕
⑬豊浜姫浜一の宮グランド北〔陸軍船舶幹部候補生隊《留魂像》〕
 【市内戦跡地図】 ポイント①~⑬記入 (略)
  おわりに
 沈黙ゆえに多くを語っている戦争遺跡。我々は今後ともこの「戦争遺跡」を大切に守りたい。
 戦争を知らない祖父母が多くなってきた平成の今、沈黙の語り部「戦争遺跡」に向かい、訴えかけてていることに耳を傾けたい。これらを負の遺産として埋没することなく、郷土の歴史遺産として末永く保存するとともに戦争と平和について考える機縁にしてほしいと願っている。
  【主な参考文献】
観音寺市誌』昭和六十年刊
『新修豊浜町誌』平成七年刊
『新修大野原町誌』平成十七年刊
常磐誌』昭和五十六年刊
紀伊村史』昭和 年刊
『郷土の文化』第十号(昭和六十年刊)「観音寺海軍航空隊の思い出」
粟井小学校百年の歩み』平成元年刊
             〔不明点〕 1 防空壕の封鎖時期   平成 年 月
                                         2  軍川に表示「二級河川終点」とは
                                         3 戦時飛行場で旧国道のバイパスは