旧制中学校に駐屯部隊

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             三中校舎に海軍施設部が駐屯    


 昭和十九年秋から二十年九月終戦直後まで三中校舎が使用されていた。柞田飛行場建設の観音寺海軍施設部である。奥山部隊長(東大出身、少佐)率いる駐屯部隊で「う五八八部隊」と称されていた。飛行場付設営隊である。飛行場全体の司令をするのは菅原正雄大佐であった。長男が三中に在学、長女が三女に在学していた。終戦の時は林田大佐が司令官に替わっていた。
 体育館(柔道場・剣道場)が一般の兵士(老兵)の宿泊所で、約三〇〇人ほどいたように思う。将校・下士官の宿泊所は運動場側に急造された校舎を兵舎にしていた。
 校庭には防空壕二、三ケ所が掘られていた。兵士用のものは土を盛ったものであったが、将校用のものは、鉄筋コンクリート造りかまぼこ型の半地下式防空壕だった。