豊浜における暁部隊~「留魂像」に寄せて

第一章 豊浜における訓練
 一、部隊の動向概略
1 宇品から移駐、豊浜の開設・動向
豊浜暁部隊が新しく開設されたのは、昭和十九年四月二九日だった。広島の宇品から移駐してきた。当初、一〇期生と一一期生と合わせて一八〇〇名という大部隊であった。宇品時代の呼称は「陸軍船舶練習部幹部候補生隊」、豊浜では「陸軍船舶幹部候補生隊」と呼ばれた。秘匿称号は「暁第・・号」であった。
2 沿革・略史
すでに宇品で編成されていた一〇期生は艇隊を組んで、昭和一九年四月二五日、二六日、音戸瀬戸経由で、機動演習をしつつ豊浜に移駐してきた。まもなく五月一〇日、一一期生(一五〇〇名)が入隊した。
一〇期生は五月二五日から六月三〇日まで、宮崎県土々呂へ出張演習に行った。一〇期が卒業したのは一カ月半後の八月一五日(二九八名)であった。
一一期生は、七ヵ月の訓練を経て、一二月一五日卒業(一五〇〇名)であった。
その間、一二期生が入隊して、翌昭和二〇年四月二九日卒業、出陣することになる。約一三〇〇名である。
「陸軍船舶幹部候補生隊(略称、幹候。以下同じ)」とは別に「陸軍船舶特別甲種幹部候補生(略称、特甲幹)」が開設された。昭和二〇年一月一〇日のことである。
一三期生が五月一〇入隊し、戦後復員する。
3 暁部隊駐屯兵舎の位置・立地条件
当時は香川県三豊郡豊浜町姫浜  にあった。隣接する一の宮海岸は、一の宮公園として地域の人々に親しまれている景勝地である。
太平洋戦争も末期に近づいて、戦雲急を告げる時、急きょ富士紡績株式会社豊浜工場が徴用されることになった。三島工場・川之江工場に次ぐ摂取である。この工場の前身は明正紡績豊浜工場で、昭和一四年に海岸五万坪を埋め立てた。同一六年富士紡績と合併していた。
昭和一九年四月一日豊浜工場、陸軍船舶隊訓練基地として徴用」(『富士紡績百年史』)とされている。
戦時中暁部隊の兵舎となったが、戦後復帰して六〇有余、「富士紡」として地域の人々に親しまれたが、現在は取り壊され、太陽光発電所として変貌している。 
4 訓練の日課
    〔初期教育の日課表〕
五時半 起床・点呼、六時 朝会・朝食、八時~一一時 課業(診断)、一二時 中食・休憩、一三時~一七時 課業、一八時 夕食・休憩、一九時~九時五〇分 自習(第一段)、 二〇時一〇分~二一時 自習(第二段)、二一時二〇分 反省、二一時三〇分日 夕点呼、二二時 消燈 
「足が砂にめりこむグランド、高いコンクリートの壁、しかしおそろしい古兵のいないことと、魚のうまいことだけは救いだった」(横尾博之・一一期生)
5 訓練の実態
第一区隊から第三区隊までが甲板部要員、第四部及び第五区隊が機関部要員である。甲板部甲板部に属しているわれわれは六分儀(兵器)の使い方、天測暦、海図に位置の線求め、手旗、モールス訓練および旗旛の挙げ方など徹底的鍛えられる。毎朝行われる手旗信号稽古は、読解の早いものの順に寝室に帰ることになる。遅いものは朝めしが冷たくなっている。うらめしい限りであった。
前期に比して後期は豊浜港の波しぶきと共に海風肌をさす寒さで、手はしもやけとあかぎれで難渋している候補生も出た。(山元善壽・一二期生) 
前期(一期)・後期(二期)に分かれていた。
一期(五月~八月) 基礎訓練
二期(九月~一〇月) 実地訓練及び自主演習 
① 大発部隊教育
舟艇エンジン始動・操舵、離岸・接岸 
昭南丸(二〇〇屯、フランス製)の船に乗り、二三日泊まり込みの訓練。
②小発部隊教育
大発が接岸できない場合、その間を小回りで解決する方法を学ぶ。
③潜水輸送部隊教育
潜水して隠密輸送する潜水艇訓練。きわめて僅かな回数であった。
② 大型輸送艇部隊教育
九〇〇屯クラスの船。船首観音開SS艇、船首歩板可動式SB艇の二種類の上陸用船艇。 
③ その他
通信(モールス訓練)
気象(天測)
宇高連絡船実習訓練
断崖攀登訓練
避難訓練(暁南丸)
軍歌演習
7 訓練体験記
〔訓練のあらまし〕
前期教育は昭和一九年五月中旬より八月上旬まで、手旗信号に始まり大小発動艇離岸達着等の基本と、その基礎理論などであった。後期教育は、同年八月一五日編成替により第七中隊(智隊)、第二区隊に編入され、SB艇機関部の教育を受けた。3ヵ月間、豊浜を離れ、山口県徳山市櫛ヶ浜にあった暁一六七一一部隊(機動輸送隊補充隊)において行われた。(国友宏・一一期)
8 軍装品には次のようなものがあった。
軍帽、略帽、冬衣袴、夏衣袴、外套、防雨外套、防雨マント、ワイシャツ、手袋、靴下、襦袢袴下、カラー、巻脚絆、略刀帯、編上靴
『あかつき』から抜粋
①正直言って、ゴム内靴、営亭での裸足の日常、砂泥まじりの足洗いのタライ、いつも不潔な感じの棕櫚マット、さらに便所の日所ビショビショの小便台などにはショックを受けた。更に食事の内容が防空兵時代とさま変りで、甲種幹部候補生の誇りもどこやらの状態。分配の多い少ないがひとさわぎの日常であった。船隊航行の図上訓練、ディーゼルエンジンの機関学科、分解整備の実技、小松島までの、金刀比羅神社の階段の速登り訓練、
一番苦労したのは手旗の送受信でありました。送る方はなんとか出来るようになりましたが、読む方が全くダメといった悲哀をかみしめました。遊動円木、十三階からの飛び下り、銃剣術訓練など。一番印象に残っているのは、当時の教官から行き降りしきる防波堤から、海にとびこまされたことで、事の起こりは区隊全体の責任とのこと、ふるえあがりました。が案外、海水はいつまで外気温より温かく感じました。なお、善通寺の実弾射撃訓練で全弾命中を告げられた喜びもありました。
黒田謙一(一二期)
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      特甲幹の昭和二〇年「豊浜日記」抄  半田一郎
1/8軍衣袴・襦袢・袴下・略帽・営内靴・上靴等支給。食事質量共苦痛。1/13船舶神社前で入隊記念個別撮影。夕食後第一大講義室軍事秘映画「海上機動ト上陸作戦」。1/15(特甲幹1500名)入隊式。1/16食事、麦+高粱飯・汁に戻る。(兵器[九九式小銃]受取り)1/17素養検査(学科)・本日より反省録記入開始。1/22執銃訓練。1/22「豊浜ゆ瀬戸の島影見はるかし船舶兵の胸は滾つも」1/31初給料9円受領。2/5三~四時不寝番と厠立哨、毎夜の事ながら四時過ぎ警戒警報。2/15学課、機関始まる。午後、繋船場へ行き艇上の人となる。2/16国史村尾次郎少尉(十期)名講義2/26応用体操・雪合戦・学課「海図」3/2〇の代りに〇といふのが本土決戦に備へる由3/4切腹の方法(細川見士)3/11「機関の結合」等、後和田浜へ3/15〇は爆雷積みだが〇は魚雷を発射する船舶特攻隊の由。3/16金刀比羅宮参拝、記念撮影。3/17夜行軍大野ヶ原経由帰隊。空襲警報。3/19朝空襲警報、艦載機三七機続いて八機、次いで四機、タンカー被害、本山飛行場に黒煙、再び空襲警報。3/20一宮海岸で実毒体験。4/1一宮海岸で舟艇秘匿壕を掘る。4/2終日舟艇引揚作業。敵、沖縄本島に上陸すと。4/3終日舟艇引揚げ作業、褌姿で水に入り曳引。4/5一二期生、一五〇名(今帰省外泊中)特攻隊にゆく由。4/19〇壮行式を挙げ営門を出づ。4/23今日も観音寺へ、やっと錨上がり、始動・運転・操舵・離着陸訓練。港内を遊式し得て初めて船舶兵の喜びを味はふ。4/24学課「羅針盤」4/29天長節。一二期生卒業式。部長閣下臨場。昼は赤飯・筍・蕗・魚・サイダー饅頭紅白・茹卵・冷凍蜜柑。午後一二期見士を歓送。
5/2本日より観音寺にて転地演習、琴弾神社傍の公会堂を宿舎とす。舟艇故障の為,学課「船操」ヒットラー自害の由。5/3観音寺港付近で舟艇演習、航速、自差測定、羅針盤航行。5/5一一時頃B29数編隊(約百機)頭上を北進。海軍に協力、昨夜の海軍機を捜索(伊吹島手前)。5/8儀式の軍装で閲兵分列式、朝昼晩共飯量著しく乏し。5/14和田浜海岸で分隊戦闘教練。5/16海軍用艇ヒメタカマル入港。5/15冬衣袴・襦袢・袴下を洗濯。観音寺舟艇監視哨、雨中ずぶ濡れ。昼食に鯛の煮物と葱の汁。5/22大発で港外停泊中の暁南丸〔相模原の船舶通信特甲幹一八六名を乗せ昨日來豊〕への移乗、船内起居訓練、船艙に泊る。5/28一宮海岸~豊浜沖で海上現地自活作業、地引網収穫、烏賊二二尾、黒鯛十数尾等。5/31観音寺にて教育査察、ジーゼル551を始動。午後は遊泳と整備。朝夕共スピンドル汁。6/1剣道開始早々空襲警報。6/2学課「対戦車」、武技「両手軍刀術」、新高キャラメル配給。6/4一五円貯金す。援農作業の為大野ヶ原へ。八幡神社着、麦刈り作業(畑二枚)空豆白米飯に空豆煮物を供さる。6/5朝、空襲警報、解除直ちに中隊全員観音寺へ対戦車肉攻演習(船練の特二式水陸両用戦車を使用)6/7繋船場羅針盤航行開始時、空襲警報。午後、Aパラ予防接種後、潮汐表作成。鼠一匹につきパン八ケを賞与とす(会報)。6/8
財田川鹿隈橋爆破演習(終夜不寝)。6/11箕浦より羅針盤航行、伊吹島北港上陸。帰りがけ小国民から手旗でトヨハマヘイタイサンサヨウナラ。6/18第一三期生入隊式。6/20学課「上陸準備」(天文航法)。午後、観音寺喜楽館で映画観賞・大映『海の虎』(大小発等出る)、文化映画『日本刀』・但し往復共駈足。6/22午前空襲警報、B29百余機の帰途を目撃。6/23幹候隊は詫間・鞆間の輸送に当る為いつ出動となるやも知れずと。6/25一宮松原で九二式重機関銃空包射撃(各人三発)6/26一宮松原で山崎管長の座禅(部隊全員)。
7/2船装を調へ第二中隊艇隊は豊浜出航、観音寺・仁尾・三崎沖を経て走島北側に達着、夜は艇内で明かす。
7/4敵機高松空襲、市の八割烏有に帰せりと。7/11箕浦―関谷中間海岸で桟橋構築作業。7/18高室へ移転開始。暁南丸で曳航予定の所、大発六杯で航行、所要時間三時間。大八車で揚陸。高室国民学校へ。7/22本日より洞窟作業。山腹を掘開。昼夕食共現地。後、吟詠等の会。7/24朝食前、空襲警報。高屋神社山頂の対空監視に立つ。詫間飛行場空襲され黒煙上る。夕刻迄、警報断続。まるよし丸乗組員三名犠牲となる。7/26高屋神社山腹の防空壕掘り。木材運搬後、観音寺末広湯(入浴料三銭)へ、青林檎配給あり。7/31室本港北側で陸上訓練「艇隊運動」。午後、裁縫室で学課「掃海法」(磁気機雷)。8/2舟艇偽装材料収集の為、急峻なる山腹を上下し汗滂沱、松材を集積す。卒業概ね九月一五日のむ如し。軍装品類、豊浜偕行社に来荷せる由。8/3一時半起床、四時出航、仁尾の対岸小蔦島に到り決号作業に協力、舟艇秘匿壕拡張、夜は山上に蚊帳を張り風に吹かれ就寝。8/5観音寺港にて大発へ自動貨車・馬匹の搭載・卸下と人員搭載。琴弾公園にて歩工協定。繋船場に集合、七時半、余木崎に向ふ途中敵の焼夷弾攻撃を目撃(今治方面)。8/10未明、艇隊は室本に帰航、六隻中五隻故障せり。8/12広島の新型爆弾にて被害甚大の由、敵「日本ヨイ国神ノ国、七月八月灰ノ国」の伝単撒布せりと。8/14鞆の桟橋前の木賃宿で米を炊いて貰ひ艇内で食事。8/15生里に到り漸く本隊と合流。ニッポンコウフクスの手旗ありし由。8/16二時、室本帰航。陛下の御放送(ポツダム宣言受諾)ありし由。五時帰隊。夕食後詔書捧読式。武装解除・郷里復員等、話に上る。(特甲幹・長野出身、後に東京外国語大学名誉教授)
  第二章  豊浜における生活
一、訓練以外の生活を垣間見る
1 訓練のために入った兵舎(鋸兵舎)の生活。それは多くの人にとって学生生活の延長線上にはなかった。学徒出陣、幹部候補生という名の下に、選ばれてある者の使命感があり、ある種の誇りがあった。
ところが、時代は大きく傾斜して、特攻化される雲行きを感知せざるをえなくなる。
ここでの生活が、いわゆる一般の軍隊と違わない規律を重んじるものではあっても、短期完成指揮官養成の裏に挺身隊として特攻化される時勢となっていく。
前途有為の学徒を多く集めた幹部候補生隊の悲運が待ち受けていた。
2『あかつき』に掲載された思い出集に拾う生活の断片
「うららかな松林に椅子を並べての学科や、教室が足りないので大浴室内での椅子を並べて学科には、かつての学生時代を思い出してか、居眠りする学生もあり、ハッパを掛けられた」(愛場一立・一二期生)
「朝はタワシ摩擦から始まる訓練はすさまじいものがあるとともに、当時の戦況に対応を求める肉体、精神はもちろんのこと、初級将校としての資格を徹底的に植えつけられた。(藤井真治・一一期生)
「禁酒、禁煙であったが、どこという事もなく煙草がはいり、官給品以外の食物がはいってきた。」煙が流れて、非常呼集がかかったこともある。( )
3 隊外、地域とのつながり
「隊を組んで堂々外出、民家で外食し、二等兵に降格された候補生もあった。みかんの皮を栄養として食べたこと」もあるという。(松田 清・一二期生)
「足が砂にめりこむグランド、高いコンクリートの壁、しかしおそろしい古兵のいないことと、魚のうまいことだけは救いだった」(横尾博之・一一期生)
箕浦舟艇監視哨でのこと…『兵隊さん、兵隊さん!』と言って集まって来た地方の学童たちを相手に軍歌などを歌っていると、お母さん達も集まってこられ、『兵隊さんお腹が空いているでしょう』と差し出された蒸し芋を一同なごやかに頂いていると、見習士官が巡視に現れ、『貴様たちは何をやっているのか。舟艇監視は遊びではない!』と大発艇の舳に立たされ、力いっぱいの鉄拳をかまされ、海中へ叩きこまれた。」(光尾 厚・特甲幹)
「立哨中に餅…私が交替して営門に立哨した時には、正面道路の反対側に、子供を背負った小母さんが、佇んで居ました。多分候補生に面会に来た親御さんと思っていました。その小母さんが、営門の道に人通りが絶えた時小走りに私に近寄ってきました。右手に銃を持ち直立不動の姿勢、私の下げた儘の左手に、小さな白いものを素早く握らせました。私は直感で食べ物だと思いました。素早く左ズボンのポケットに突っ込みました。幸いのことに営門内の衛兵所は、死角になっていました。その親御さんは面会に来て無時会って、許されたものを渡し、余ったお餅を持ち帰るに忍びず、わが子と同じ立場の営門前の若者に渡したと解釈しました」(柳田操一二期)
「悟りの候補生…食事が貧しければ心が荒みがちになるが、あながちそうでもない。同じ食卓の師範出の大場候補生は『俺は一番少ないのでよい』言って一番最後に自分の分を取った。餓鬼道に近くなった我々の中で見上げた人であり、禅の悟りの境地かと感嘆したものであった。」(高間久寿美・特甲幹)

4 筆生に関する記事 (挿入)
主として、女学校卒業の若い女性が勤めていた。…
二、〇レへの転属予感
1 特攻への予感(それをいつ気づくことになるのか)
 2 空襲警報
生活を脅かされたものは、敵機グラマンの来襲だが、
長く尾を引くサイレンが警戒警報で、断続的に鳴るのが空襲警報発令であった。『豊浜日記』に記載されている空襲警報は昭和二〇年三月一四日、一九日、二九日、四月七日、六月一日、五日、六月一五日、二二日、七月一九日、二四日。七月四日は高松大空襲で市の八割が焼失したと聞く。
被害を受けたのは、三月一九日。朝、空襲警報。艦載機(グラマン)三七機、続いて八機、次いで、四機。タンカー被害。本山(柞田)飛行場に黒煙。再び空襲警報。
三月一七日の神戸大空襲、一八日の九州大空襲に次いだものと見られる。
【慰霊・記念碑としての留魂像】
一宮公園の松林の中に当時を偲ぶ記念碑として留魂像、その下に名籍を永久保存している。
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