同人誌『無帽』600号で終刊

『無帽』600号終刊に寄せて
          剣持雅澄
なんとなく予感はしていたが、とうとう長年所属していた同人誌『無帽』は近く600号で終刊となることを告げられた。10日ほど前のことである。もちろん主宰者高木白さんからの通信によってのことである。
ただ、私は一人の同人にすぎない。中途加入で131号(昭和49年9月)から書き始めた。当時37歳、多水に勤めていて同僚の八坂俊生さんが携わっているこの同人誌の地味さに賛同して入会させてもらった。月刊誌なので、1カ月が早くきて1編8枚がなかなか書けないで焦ったものである。短詩型の短歌・俳句は少年の時から作っていたが、国語の教師でありながら長い文章は苦手だった。時折書いたかもしれないが、定期的に発表していなかった。それでも、毎号目まぐるしくテーマを変えて品曼荼羅の随筆を書いたものである。ある面では左遷された道真のような心境で、現実を超越し文芸の世界に遊び酔うことに救いを求めていたかもしれない。
私にとってのスタートから終始1号ももらさず終刊まで40年間書き続けた。ただ、編集を手伝ったことは一度もない。すべて高木さん、八坂さんのお蔭である。自分はずっと据え膳でおよばれしていたお客さんであった。お礼とお詫びは言い尽くせないほどである。
例会にもほとんど行ったことはなく、合評会はしていたと思うが、その様子とか批評内容も漏れ聞いたこともない。ただ、参会した人の作品だけの批評をしていたことは聞いている。同人は切磋琢磨して、お互いを高め合うところに同人誌の意義があるのだろうが、その功徳に浴さず散会してしまったことになる。
 ただ、自由にのびのびと書けたところがよかったのではないかと思っている。人の批評・批判・非難まで聞いていると滅入ってしまう。ただ書き続けること。日記代わりに生活史・精神史的に書き続け、書き残しさえすればいいではないか。そんな安易な考え方で原稿用紙のマス目を埋めていたに過ぎない。
 これまで算用もしたことはなかったが、書いた全枚数を数えてみると、『随筆無帽』が総計原稿用紙で2800枚。毎年1回発行の『小説無帽』(5号~38号)が34編1600枚、40年間に書き続けたことになる。思えば、自分の人生の後半は『無帽』と共にあったと言える。この文芸的拠所がなかったら、どんなに寂しい精神生活をしていただろう。その間、書く楽しみを生き甲斐にして、頽れそうな精神生活を立て直し、他人とは違う独自の文学世界を形成してきたように思う。誰も立ち入れない孤独でそれでいて人恋う人間探求派の営みであった。満たされない現実を文学の世界に救いを求めようとしていたのであろう。
『無帽』600号、50年の歴史の五分の四になる470号に書いたに過ぎない自分。草創期の130号に参加していないので、偉そうなことは言えない。主宰者高木さん、編集者八坂さん、強力な援助者高津さん、それぞれの蔭ながらの役割を仄かに知っているが、本当のところは分かっていない。自分は「小豆島点描」を昭和49年9月(131)からの470冊しか知らない。その後ろめたさはある。それはさておき、ここでは言いたいことを言わせてもらいたい。それが自分の半生40年間書き続けさせてもらった『無帽』への御礼と思いたい。
 自分の後半生まるまる40年間は『無帽』とともに生きた人生だった。人から見れば「あんな雑文」と軽くみなされたもの。それでも、そんなことをお構いなしに書き続けたことは意味のないことではなかったと思っている。読まれなくても、読み捨てられても、その時々をどう生きていたか、その記録としては多少意味があると確信している。書き留めなかったら、何も残らない。大体において言葉によらなければ、思想感情は定着し得ない。そういう信仰のようなものがあったし、今もある。ぼんやり空想を楽しんでいたとて、無きに等しい。書かねばならない。手書きで終わらず、活字にし、印刷物にすること。その有難さを本誌『無帽』によって実感することができた。
 320ページの『随筆無帽500号』(平成17年6月刊)を一般読者は持っていないだろう。ほとんどが背文字の出しにくい小冊子が普通の無帽なのだが、この記念号だけは空前絶後の大冊で、中身がつまった本であろうかと思う。この紙面を利用させてもらい、「文学的自伝」と題して面映ゆいことを書いた。臆面もなく、ここでもその続きを少々書いておきたい。恥の書き続きということである。
毎月1回の「随筆無帽」には随筆を、毎年1回の「小説無帽」には小説を、文字通り忠実に書くのが同人としての努めであると信じて実行してきた。随筆くらいは誰でも書ける。小説はそういう具合にはいかない。もともと小説を好まず、一編も書いたことのない自分が入会早々から書かざるを得ない羽目に陥ってしまった。その作品一覧をここに並べておきたい。
ほととぎす・父の風景・讃岐曼荼羅・連翹の島・岬を越えて・パンドラの匣俳諧の風景・曼珠沙華・網走幻視行・残花・孤燕(はぐれつばめ)・鹿持雅澄伝・椋鳥・津軽頌歌・美の刻・ブラックホール・レクイエム・梓・小豆島拾遺・父との対話(ダイアローグ)・小豆島挽歌・赤トンボ・父の大地・帰燕・爺神恋山・渚の女・春の鳥・魂きはる・詩人森川義信伝・人丸橋・松よ今、平成の琴を弾け・比翼塚・渡月橋・鈴の歌(以上、34編)
連翹の島(123)は、新任教師として過ごした小豆島を舞台にしているが、体験そのままではなく、大方はフィクションである。体験そのままを記した随筆を添えて単行本『連翹の島』(檸檬)を発行した。
俳諧の風景(100)は、一夜庵で晩年を過ごした山崎宗鑑の一代記で、第16回香川菊池寛賞受賞作品。高松での受賞祝賀会には無帽同人数人が参加してくれた。
孤燕(はぐれつばめ)は、疑似体験、残留孤児の記。雑誌「文芸」(昭和60年2月)で今月のベスト3に入った。
詩人森川義信(50)は「全国版朝日新聞(平成14年9月)で「過去の足元点検」という大きな見出しで特筆してくれた。さすがは朝日の文芸記者だと感心した。
松よ今、平成の琴を弾け(100)は、琴弾公園のグロテスクな松や捨て犬までも会話させるという、ふざけた、奇妙きてれつな作品。それでも四国新聞同人誌評に長々と次のように紹介してくれていてうれしかった。
剣持雅澄の「松よ今、平成の琴を弾け」は、主人公が興昌寺山に居を構え、松尾芭蕉の生まれ変わりだというホームレスの松雄。
有明浜に続く琴弾公園、琴弾山には、さまざまな名木があり、松雄はその名の通り、松とも会話ができるし、犬の言葉も理解可能。
松との論議を通じて人間と自然との共存の難しさを知り、理想的な燧灘ユートピア市を目指す。日本人の血肉ともなっている古典文学や伝説の中の松。それらとの対話が人間の横暴さ、不遜ぶりをあぶりだす。
最近は「四国新聞」だけが好意的に同人誌の紹介をしてくれている。書けば出版してくれ、印税の入る有名作家と違って、地方の無名同人が金を出し合って書く同人誌。書けば書くほどもうけになる有名作家と違い、我々無名同人は書けば書くほど金がかかる。それでも書き続けてきた。そのささやかな営みを温かく見守り、紙面の片隅にわずかであっても、誠実に紹介してくれた四国新聞記者にお礼申し上げ、ここに40年続いた無帽同人の筆を措く。
 
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