創作「文芸紙碑」

菊地寛記念館での講演 (12月7日)「創作文芸紙碑」                   
              
イメージ 1
 
イメージ 2
   菊地寛記念館文芸講座
  創作「文芸紙碑」   剣持 雅澄
                平成二十五年十二月七日()
            サンクリスタル高松 
    はじめに
昨年の郷土「文学碑」調査考察に続いて、今回は「文芸紙碑」をテーマにして、その創作的表現を試みてみたい。
 一般に、何か表現しようとする制作動機(モチーフ)があって、それが主題(テーマ)になって明確化される。
「文芸紙碑」とは、私の最近使い出した用語で一般には使われていない。この単語「紙碑」は、わずかに三省堂大辞林』に「世に知られていない物事や、世に埋もれた人の生涯業績などを書いた文章」とあるくらいである。
広く使用される「文学碑」と区別して、私の使う「文芸紙碑」は、一概には解き明かせない、多重的な意味を持つ、曖昧さについて言及しておかねばなるまい。 
  
  一、文学碑に対する「文芸紙碑」の意味づけ
 外在する文学碑に相対して、作品それ自体の価値判断として位置づける名称である。
  碑(いしぶみ)は、本来外界に堂々と建てられ、世間一般の人に見てもらうためのものである。それに対して、「紙碑」は紙面に書かれたひそかなる文章作品そのものである。人目に曝すのはできるだけ避け、他者に媚びるところがない。ただ、日記・手紙の私信までは加えにくく、あくまでも〈創作的作品の謙譲的名称〉である。堂々とした公表ではなく、〈含羞を含んだ自己表現〉とも言える。
「紙碑のつもりで書く」とは、謙虚であるとともに自ら書くものに対する自負心を含めているように思われる。すなわち、永久保存を意図する〈公表の石文〉に対するひそかなる〈非公表の紙碑〉とも言える。
二、自己制作の形としての「紙碑」(=文書の活性化)
 文学碑を「建てる」に対すれば、文芸紙碑は、身近に「立てる」ことができる存在である。比喩的に言えば、寝ている文章を「起こす」とも言える。本を本棚に立てても、紙碑とは言えない。ここで言う「紙碑」とは、主体性のある個人が自らの価値判断で選んだ言葉の精選・精髄がなければならない。よりよきものの選択志向がなければならない。散文的冗漫は許されず、限定された紙面には〈象徴性〉が求められる。含蓄ある言葉に人は惹きつけられる。
 その構成は自由であるが、一般の詩文構成の基本は「起承転結」の四段構成であろう。それに準じて紙碑を立体化する場合、安定性のある四角柱、四曲屏風がなじみ易い。
春夏秋冬の循環性のものや輪廻転生のようなサイクルをなすものがある一方、人の一生「生老病死」のような一回限りで完結性のものがある。
一個人の一生を書いた「墓紙」を自ら作成することは意義深い。墓石(墓碑)は半永久的であるが、限定的で修正ができない。それに対して、この「墓紙(墓誌)」は自在に書き替えられる。この自己完結性のある「自作紙墓碑」を提唱したい。
 
三、世の片隅の紙碑「同人誌」
「日本現代紙碑文学館」が岐阜県海津市にある。文学同人誌を収集する全国的に珍しい図書館である。無名作家によるひたむきな作品も、文学的に価値あるものとする。作品の散逸を防ぎ保存することは意義がある。現在約三五〇〇〇冊の蔵書があるという。
 香川県内で言えば、昭和三十八年創刊の季刊誌『遍路宿』がこの度二〇〇号、同年創刊の月刊誌『無帽』が六〇〇号を迎えた。前者は更に続刊されるが、後者はここで終刊となった。
 主宰者は高木白、編集者は八坂俊生、両氏によって始められ、少しずつ同人は二〇人を限度としていた時、私はかろうじて仲間に入れてもらえた。一三〇号から六〇〇号まで毎月毎号欠かさず随筆を載せてもらえた。三九年間で総計四七〇号に約二九〇〇枚の随筆原稿を書いたことになる。毎年一編の慣れない小説も書いてきた。
 いわゆる「創作」である。随筆は雑文で、小説はやはり創作意識がなければ、自堕落になる。私小説が日本文学の主流であった時代はおわった。フィクションを凝らした本格小説執筆への意欲に燃えながら、毎号腰砕けになってしまった。何度か全国同人誌の月間ベスト三編に加えてもらった。ここまでだった。
 身辺雑記ですます安易な随筆にとどまらず、根気と創意のこもった小説創作に志したいものである。
 
   むすび…心の紙碑【立志=立紙】 
 中国では古来「詩は志である」と言われた。広く今「文学は志である」とも言える。大上段に理想を振り翳すのではなく、心の丈を紙に書きとめ、そこに立ててみる。寝かせておくより、その方が志は立ち上がる気がしてくるものである。
 書いてそのまま仕舞うのではなく、自分の目の前に立てておくと、言葉が生きて動いてくる。活性化される。一般に書いたものは朗読をしてみようとは、よく言われている。私のするように書いた紙を立ててみようと言った人はそんなに多くいないように思う。
コロンブスの卵」にあやかって、折り目をつけて立てて机上に置く。それだけでいい。いつまで経っても立てたままにしていい。これならば【自作紙碑】となるのではあるまいか。〈文芸〉が間に入らなくても、快く響くことばであれば、どんな思い付きでも、それは文芸精神にかなう、【心の紙碑を立てる】ことになるのではあるまいか。