万葉集「防人の歌」


    「万葉集」防人の歌       

 防人とは朝鮮や中国との国際緊張に備えて、東国から西国に派遣された兵士であった。東国から遥かな任地九州までの旅は容易ではなく、決死の覚悟であり、家族との悲しい別れがあった。行く者、見送る者。任地にいる夫を恋う妻と、故郷に残した家族を思う夫の歌が多く残されている。
「防人歌」が『万葉集』に九十九首載せられている。
 巻二十の「天平勝宝七歳乙未二月、相替わりて筑紫に遣はさるる諸国の防人等の歌」と題する歌群八十四首が中心である。大伴家持が兵部少輔として防人の事に当たる職であったので、防人部領使に命じそれら防人の歌を提出させ、選択して載せたものである。国は遠江(七首)、相模(三首)、駿河(十首)、上総(十三首)、常陸(十首)、下野(十一首)、下総(十一首)、信濃(三首)、上野(四首)、武蔵(十二首)の順で、これは提出月日の順である。約半数の八十二首は拙劣歌として除かれた。
 選んだ歌八十四首にはすべて左注を施し、例えば「右一首国造丁長下郡物部秋持」のように、地位身分・出身郡・作者名を具記している。後代の勅撰集ではできなかったことである。防人の記録はこの時より百十年前「大化改新」の詔勅に初めて現れる。任期は三年、毎年三分の一ずつ交替させ、二十歳以上六十歳以下の者を当てた。初めは全国から召集したが、天平の頃は東国地方の者だけになっていたのをあまりにも負担・犠牲が大きすぎて九州の者のみに変えた。この防人制度は平安時代に入って廃止されたが、万葉第四期は東国方面から防人が駆り出された時期で、それだけに防人歌には哀切なものが多い。
 親子・夫婦の愛情の絆を裂かれ、強制的に兵役に従事しなければならなくなった別れの哀しみ・肉親愛が基調をなしている。
  道の辺の荊の末にはほ豆のからまる君を離れか行かむ (巻二十ー四三五二)
  大君の命かしこみ出で来れば我ぬ取り著きて言ひし子なはも (巻二十ー四三五八)
  父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ忘れかねつる (巻二十ー四三四六)
 東国方言をそのまま使い、飾らず率直に防人の真情が吐露されており、心を打つ歌ばかりである。都の人の歌と比べて口踊文学的な性格が濃く、東歌に似合うところがある。根本的に違うのは、「大君の命かしこみ」が七例もあるように、防人歌には天皇(国家)随順意識が根強くある。喜び勇んで仕えまっているのではなく、遁れることもできずしかたなく従っているにすぎない。三年間の単身赴任、兵役義務を果たして早く帰りたいと念じて歌う。
  筑紫辺に舳向かる船のいつしかも仕へ奉りて国に舳向かも (巻二十ー四三五九)
 このような気弱さを裏返しての開き直りか、大和男児の心意気なのか、次のような歌もある。
  今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は (巻二十ー四三七三)
「醜」とは自分を卑下することばで、契沖は「みづから身を罵辞なり」と言う。
 鹿持雅澄は『万葉集古義』で歌意を「かくれたるすぢなし、家をも身をもおもはずて、唯一道に、公役を励み勤しむ武夫の志著れたり」と述べている。「愛国百人一首」(※後注参照)にも、今奉部与曽布の作品として載せられている。(大戦時、丸亀歩兵百十二連隊ビルマ派遣「楯」はこの歌によるはずである)父母妻子を思う人間的真情、そしてそれを超克しての使命感・愛国心、いずれも納得できるものである。防人たちはその両極に揺れながら己が勤めを誠実に果たしたのであろう。
 ところで、ここに奇妙な一首を紹介しなければならない。
  ふたほがみあしけ人なりあたゆまひ吾がする時に防人にさす (巻二十ー四三八二)
日本古典文学大系』によると、大意は「全く根性の悪い人である。私が急病をしている時に防人にさせるとは」とある。これについては諸説あって、語義不詳、定説がないと言っておくべきなのだろう。
万葉集注釈』(澤瀉久孝)によると「布多は、国府の所在地であった。この歌に布多の字を使用しているのも、その意を以て使用したのであろう。ホガミは、オオカミで、太守、すなわち長官と解せられる。
布多に居る長官で、下野の守のこと」とある。「栃木県知事は根性の悪い人である」と言えばこれは個人攻撃にもなり、さし障りもあろうというもの、その意味として大伴家持がこの歌を採用したであろうか疑問が残る。
 いずれにしても、作者那須郡上丁大伴部広成は急病または重病であったのに防人にさせられて、迷惑がっている、と言うより非難し怒っている。冗談ではなかろう。このような反抗心を露骨に表した歌があることに驚いている。防人の歌がほとんどすべて悲嘆または諦念によって歌われている中にあって、この歌だけは特別異彩を放
ち、刺がある。そこがおもしろい。ただ、防人制度への批判や抗議という本質的なものではなく、個人的感情をぶっつけているにすぎないだろう。そこがもの足りなくも思われるが、こんな辛味の歌があってもいい。
 防人から歌を募集して家持が選び、「拙劣歌」として没にした歌はどんなものだったのか。想像の域を出ないが、表現技巧のまずさよりもこのような不平不満ひいてはレジスタンスの歌であったかもしれない、と勝手に想像している。そして、それはそれでいいのだと突き放してみる。防人廃止への家持の執念は、窮状を訴えるかのごとき肉親愛に限定・昇華し、直裁に言挙げすることを避けたと見たい。それにしても、兵部省としての上進歌に四三八二の歌(抗いの歌)がまぎれこんでいるのは快なる哉。