虚実皮膜論(フェイクニュースもほどほどに)

     虚実皮膜論   近松門左衛門の演劇論
 芸術における【真実】は、虚構(=フィクション)と事実との間の微妙なところにあるという。写実だけではなく、虚構があることによって芸の真実みが増す。
近松の友人の穂積以貫の『難波土産』に近松の言葉として紹介されている。
原文では「きょじつひにくろん」と読ませている。

  『浄瑠璃評注 難波土産』 穂積以貫が近松門左衛門の芸論について述べたもの。
 序文 往年某近松が許にとむらひける比近松云けるは 惣して浄るりは人形にかゝを第一とすれば外の草紙と違ひて文句みな働を肝要する活物なり 殊に歌舞伎の生身の人の芸と芝居の軒をならべてますわざなるに 正根なる木偶にさまざまの情をもたせて見物の威をとらんとする事なれば 大形にては妙作といふに至りがたし
 兎角その所作が実事に似るを上手とす 立役の家老職は本の家老に似せ 大名は大名に似るをもって第一とす 昔のやうなる子供だましのあじゃらけたる事は取らず 近松 答云 この論 尤のやうなれ共 芸といふ物の真実のいきかたをしらぬ説也。芸というものは実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるもの也 成程今の世 実事によくうつすをこのむ故 家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共 さらばとて真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂白粉をぬる事ありや 又真の家老は顔をかざらぬとて立役がむしゃむしゃと髭は生なりあたまは剥なりに舞台へ出て芸をせば慰になるべきや 皮膜の間といふが此也 虚にして虚にあらず実にして実にあらず この間に慰が有たもの也
 是に付て去ル御所方の女中 一人の恋男ありてたがひに情をあつくかよはしけるが 女中は金殿の奥ふかく居給ひて男は奥へ参る事もかなはねば ただ朝廷なんどにて御簾のひまより見給ふもたまさかなれば 余りにあこがれたまひて 其男のかたちを木像にきざませ面体なんども常の人形にかはりて其男に毫ほどもちがはさず 色艶さいしきはいふに及ばず 毛のあな迄もうつさせ耳鼻の穴も口の内歯の数まで寸分もたがへず作り立させたり 誠に其男を傍に置て是を作りたる故 その男と此人形とは魂のあるとなきとの違のみ成しが かの女中是を近付て見給へば さりとは生見を直にうつしては興のさめてあつぎたなくこはげの立もの也 さしもの女中の恋もさめて傍に置給ふもうるさく やがて捨うせたりとかや (後略)
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