小品「芭蕉讃岐行」Ⅲ

 
   (一)琴弾回廊
 一夜庵のある興昌寺山、琴弾八幡宮のある琴弾山のある琴弾公園。ここは瀬戸内海国立公園の西端に位置する観光地。屋島・金毘羅・善通寺ほど多くの観光客は来ない。ただ、寂びのある俳趣はたちこめた閑静な田舎街である。俳祖宗鑑を訪ねて、俳聖芭蕉の霊の感合があったとて、何の不思議もない。もの好きどもがバーチャル連句を巻いたり、反笠・桧笠の俳諧師が歌仙を巻いたとしても何の不思議もない。みなこの土地柄の俳諧精神の伝統が浸透している現れであろう。
 芭蕉は述懐する。「奥の細道の旅では、福島の飯坂の鄙びた出湯に泊まったことがある。今この温泉とは大違いだが、なぜかその時の貧家の様が思い出される。持病が起こって魂も消え入るばかりだった。そこを乗り越えて大垣までの旅を終えた」
 宗鑑は応える。「この琴弾回廊は本当の温泉ではない。昔ながらの温泉はここから見える伊予の高嶺の向こうの道後温泉が昔から有名である。それはそれとして、今宵はここで連歌を共に巻くことができ、至福の出逢いを堪能できる。ありがたい」
  「それにしても、のんびり温泉に浸かって詠んだ句はそう多くない。加賀の山中温泉で詠んだ湯の匂の一句くらいだろうか。旅先の湯は癒やされる。今時の人は湯治ばかりでなく、余分の人生を楽しむために温泉旅行に興じていて、それはそれでいいのだろうが、幸せ過ぎて緊張感が足りないようではないか」
「それもそうだが、俳句の一句でひねってほしいものよのう」 
「今宵は我々、両吟とでもいきますか」
「もっともなこと。そろそろ始めるとしますか」
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   (二)謡曲「鑑蕉問答」
     シテ 芭蕉  ワキ 宗鑑
芭蕉、一夜庵に泊まり、宗鑑の亡霊に会う。
複式夢幻能  謡曲「鑑蕉問答」(創作)
 亡霊と対話する蕉翁、先師の老獪さにたじたじ。蕉門で先師とは芭蕉のことだが、この舞台では宗鑑が先師である。その老獪さは芭蕉のたじたじするところである。五十歳の芭蕉は、八十歳の宗鑑に対峙すれば、風貌においても親子ほどの差異がある。何より俳諧における老獪さはこの先師にとてもかなわない。(この項、端緒にも付いていない)
シテ 芭蕉 諸国修行の俳諧師にて候
ワキ 宗鑑 この地にて没せし連歌師なり 今日は遥々よくぞ参られたり、忝く候。
 
  謡曲芭蕉」(古典作品、禅竹作?)  
前ジテ 里の女(化身)
後ジテ 芭蕉の精
ワ キ 僧
   …後シテは芭蕉の【精】で、男体ではあるが、面は前シテと同じく増女のまま…
  月の冴えた秋の半ばの深夜 世の無常を語らせる夢幻能。僧との問答でしみ   じみと 〈急〉
シテ「庭のもせ山陰のみぞ。
ワキ「寝られねば枕ともなき松が根の。現れ出づる姿を見れば。ありつる女人の顔ばせなり。さもあれ御身はいかなる人ぞ。
シテ詞「いや人とは恥かしや。誠は我は非情の精。芭蕉の女と現れたり。
ワキ「そもや芭蕉の女ぞとは。何の縁にかかかる女体の。身をば受けさせ給ふらん。
シテ詞「その御不審は御あやまり。何か定は荒金の。
ワキ「土も草木も天より下る。
シテ「雨露の恵を受けながら。
ワキ「我とは知らぬ有情非情も。
シテ「おのづからなる姿となりて。
ワキ「さも愚かなる。
シテ「女とて。
地歌「さなきだに。あだなるに芭蕉の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。ほころびも恥かしや…花も千草も散りぢりに。花も千草も散りぢりになれば、芭蕉は破れて残りけり。
 
  (三) 空海西行の風景                                    善通寺五岳が遠望できます。空海弘法大師の生誕の地。もうその近くまで来ております。小半日をかければ行き着くことができます。ただ、もう少し心の準備をして、やおら行く方が気持ちが自然に高まってきましょう。携帯してきた『山家集』に納められている歌を引いてみます。                                 
   めぐり逢はんことの契りぞ頼もしき厳しき山の誓ひ見るにも             自分もまた西行になってこの山に登るつもりにしていますが、西の方から遠く見ても切り立った山岳の中心であろうと想像できます。                    
                                       
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    我拝師山は屏風浦五岳山の中心になる高山です。高いと言っても讃岐の山は皆低いようで、高野山を思わせる山は見受けられません。                                   
 この辺の人は我拝師と山文字を捨てて申さないようです。わがはいしと呼ぶのです。これとやや離れて筆山があります。遠くから見ると筆に似て、まろまろと峰の先が尖っているので、言い慣わしているようです。山を見るとすぐ登りたくなるのは西京のみならず、自分も同じです。                               
 この山は道が通じておらず、草木をかき分け、岩を這うようにして登らねばなりません。 『山家集』には次の歌も記されています。                       
     筆の山にかき登りても見つるかな 苔の下なる岩の気色を            
 麓の水茎の丘には山里庵と言って、西行がしばらく隠棲していた草庵も崩れかかったまま残されていました。その辺に年古りたる松も枯れずに立っていました。
  久に経てわが後の世を問へよ松 跡偲ぶべき人もなき身ぞ           
  感情移入のできる和歌ならば、もの言わぬ松に対しても祈りを捧げることができるのですが、発句では思いの丈が詠みきれませんね。                  
 
  (四)西行の讃岐第一歩は三野津                              『山家集』を素直に読んでください。                             
 「讃岐の国へまかりて、みのつと申津に着きて」と題して、次のような歌を残していますね。                                            
    敷きわたす月の氷を疑ひて篊(ひび)の手まはる味鴨(あぢ)の群鳥       
 これに続いて月の歌が十首次々と登場します。月の澄みきった絶対の境地を讃えるものです。穢れた塵の世に対して、清浄な絶対境の月を讃嘆する歌々であります。これらを見捨ててどうしましょう。見逃してしまいそうな「雪月花」の中で特に月に力を入れて句にしていることを意識してほしいものです。                 
 舌足らずですが、讃岐上陸の三野津へ第一歩を印した最初の一句を書き留めておきましょう。     もろもろの命より月生れ出でし              
                                 
  (五)歌仙「二日泊りし宗鑑が客」                                二日泊りし宗鑑が客、煎茶一斗米五升、下戸は亭主の仕合せなるべし。
   洗足に客と名の付く寒さかな        洒堂                          綿館双ぶ冬向きの里           許六                         みそさざい階子の鎰を伝ひ来て        芭蕉                      
     春は其まゝなゝくさも立ッ              嵐蘭                        月の色氷ものこる小鮒売り            六                     
   築地のどかに典薬の駕          堂                    
 相国寺牡丹の花のさかりにて        闌                    
    椀の蓋とる蕗に竹の子          蕉                     
 西衆の若党つるゝ草枕            堂                    
    むかし咄に野郎泣かする         六                     
  きぬぎぬは宵の踊の箔を着て        蕉                      
   東追手の月ぞ澄みきる           闌                     
  青鷺の榎に宿す露の音            六                       ふたりの主杖あと先につく         堂                   
乗掛の挑灯しめす朝下風           闌                   
汐さしかゝる星川の橋            蕉                  
  村は花田づらの草の青みたち        六                     
  塚のわらびのもゆる石原          堂                    
   薦僧の師に廻りあふ春の末         蕉                     
    今は敗れし今川の家            闌                     
  うつり行く後撰の風を詠み興し       六                    
又まねかるゝ四国ゆかしき        堂                 
「四国ゆかしきか。四国順礼にはどうしてもゆきたいものだな。招かれて行くに越したことはないものをな」 と芭蕉は共感して呟くのだった。                
              
(六) 俳諧二つ笠                                     
昔鑑師は反笠を愛し、蕉翁は檜笠を愛した。これをもって、西讃の坂本郷では俳諧を好むものが「二つ笠」を大切にしている。俳祖宗鑑と俳聖芭蕉を共に崇敬しているということである。芭蕉を崇める人は全国に多いが、宗鑑を崇める人はそう多くない。ただ宗鑑が生まれた近江国草津、一時仮寓のあった山城国山崎では尊崇の念が篤い。そして、ここ讃岐国坂本郷で晩年を過ごし終焉の地は、遺跡・遺品・遺筆を愛護している。『俳諧二ツ笠』は一茶の師二六庵竹阿が、地元の小西帯河・西山青玉に俳諧撰集を編集させたもの。その序文には、宗鑑二百年忌と芭蕉早苗塚碑を竹阿が指示したことが書かれている。興昌寺の一夜庵と琴弾八幡宮の早苗塚は、「二つ笠」の遺物・遺跡として目にすることができる。                   
 
(七)支考、春水亭で句会                                  
 宗鑑の一夜庵を訪れた後、観音寺では久治目一砂の一砂亭で句会を催した。ここに師匠として招かれた各務支考は、次の一句を詠んだ。               
俳諧に寝ころびかたし蓮の上                          
 一砂は家族の絆しなく、仏の勤めと俳諧にいそしんでいた。              
 その一族である旧家名門宇喜多家でも句会が模様された。              
更には、隣村大野原開拓の先駆者平田家において春水亭で句会が続いた。
    あれを見て富貴をほめん桐の花   支考                         芍薬に立ちて舞をぞ亭主ぶり     除風                      本来は、先師芭蕉が来るべき人だった。四国を翹望しつつ客死した師の身代わりとなってここに来ていることを切なく思いみる愛弟であった。また、同時に師に忠実な蕉風伝達者ではなかったようである。四国で支考が何十句作ろうと、芭蕉の一句には及ばない。                                           
(八)芭蕉の亡霊                                       
 321回忌とは、我が師蕉翁の紀念年。この年を措いて師の魂魄を呼び寄せる時はないものと信じる。我は芭蕉の草木を千鶴からもらい受けた。初時雨旅人の句は雅佳父子の彫り込んだ句碑だ。生前の句はすべて辞世と遺書にしたためた父をもつ我は今、芭蕉教に憑りつかれている。芭蕉の寂びを喜ばず、無視する風潮の世に対する意思もなく、ただひたすら宿命としての芭蕉である。               
  もしも、その精霊に相会うことなくんば、その篤き信仰が足りないのである。どこ かで芭蕉の亡霊に相接することなくんば、その深き研鑽が充たされていないのである。すべての至りなさが、芭蕉との対面対峙を拒まれるのである。         
 とまれ、宗教も学問も世俗を捨てて、身一つでいざ流離いの旅に出よう。           外にも出よ 心はせをに遇はむため   今芭蕉                                             
(九)大野原芭蕉百句(抄)                                                                          
讃岐野に馴染んでここは千代の春                  
近江より移りし邸に年迎ふ                       
     正澄は平田家二代目御代の春                         
 大野原藪も畑も春兆す                           
讃岐への辺土の行脚遍路かな                     
 讃岐野の捨身無常の遍路哉                       
 芭蕉逝きて三二一年目に甦る                      
山よりも野に宿る幸大焚火                       
檜笠乾坤無住同行二人                         
 冷えてなほ直に野松の枝の形                      
 有盛の逃れ棲みたる平家谷                       
   里人はみな平姓落人部落                          
    虚と実を合わせ呑みたり蕉風は                        
 
(十)支考は芭蕉の身代わり                                     近江の国から開拓の地を求めて西讃岐大野原に移住してきたきたのが平田家。木屋を屋号とする近江商人だった。広大な屋敷には美しい庭園があり、外来者をもてなした。蕉門十哲の一人支考も丁寧にもてなされ、春水亭で句会が催された。それだけではない。能謡曲が演じられた。笛・鼓・太鼓・地謡などもあり「翁」「高砂」「猩々」「釣狐」など鄙にはありえない舞台芸能、その風流が垣間見え、支考を驚愕させた。支考は姫浜で「昼顔に敷寝の袖や貝遊び」の一句を残して伊予に向かった。芭蕉の詠句なりせば、豊浜町姫浜の宣伝句になったであろう。         
     昼顔や有明浜も姫浜も    今芭蕉