伯楽は常には非ず。


    伯楽=馬の名鑑定人。広く、才能を見抜く目利き。
      伯楽は常に非ず=全部否定  伯楽は常には非ず=部分否定
 「伯楽一たび冀北の野を過ぎて馬群遂に空し 」 韓愈「送温処士赴河陽軍序」
 伯楽がひとたび良馬の産地である冀州の北部を通ると、良馬は一頭も残らなくなる。名君賢相が上にいると民間の賢人はみな朝廷に用いられることのたとえ。
     
(例文1) わたしは馬政紀、馬記、元享療牛馬駝集、伯楽相馬経等の諸書に従い、彼の脚の興奮したのはこう言うためだったと確信している。  芥川竜之介「馬の脚」

(例文2) 氏子は呆れもしない顔して、これは買いもせず、貰いもしないで、隣の木の実に小遣を出して、枝を蔓を提げるのを、じろじろと流眄して、世に伯楽なし矣、とソレ青天井を向いて、えへらえへらと嘲笑う…その笑が、日南に居て、蜘蛛の巣の影になる・・・   泉鏡花「茸の舞姫

(例文3) 農民一(登場 枯れた陸稲「稲の伯楽づのぁ、こっちだべすか。
                          宮沢賢治「植物医師」

 【付言】 先生が生徒をどれほど見殺しにしたことか。大方の教師なるものは生徒の才能を見抜けず、育てられず、お座なりの教師業にとどまり、せっかくの潜在能力を持っていた者を伸ばしてやれない場合が多い。 師弟関係には相性があるものの、それはさておき、役目柄、可惜才能の芽を摘んでしまうことはあってはならない。
 教師は生徒の才能発見者・養育者でなければならない。それが与えられた使命というものだ。形ばかりの教師業に安住してはならない。