惟神(かんながら)の万葉歌

 
折口信夫『古代人の志向と基礎』より
  惟神の道
 主上の行為を、神ながらといふ。神として・神のゆゑ・神のせいと言ふ意味で、神のまゝ、と言ふ事ではない。ながらは、のからで、神のせいで、さういふ事をする、といふのである。惟神の文字の初めて見えたのは、日本紀孝徳天皇の条で、又随神とも書いてゐる。主上が、神として何々をする、と言ふ時には惟神、神の意志のとほりに行ふ、と言ふ時には随神と書いたやうである。
 
(参考)
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  香川県三豊市菅生神社の万葉歌碑
造酒歌一首 中臣の 太祝詞言言ひ祓へ 贖ふ命も誰がために 汝 (巻17ー4031)
 
 万葉集などにある、惟神の用語例が、最古のものだ、と考へてゐる人もあるが、さうは思はない。万葉集に見える例も、浮動してゐるので、記・紀・万葉等の用語例を、日本最古のものとする考へ方は、よくないと思ふ。もつと前に、もつと古い意味があつたのが、幾度か変化して後、記・紀・万葉等に記録せられたのである。惟神にあつても、万葉集に出てゐるから、其が本義だ、と考へる人もあるが、其は日本の国語の発達の時代を、あまりに短く、新しく見過ぎてゐる。
 惟神の意味を 釈くにしても、記・紀・万葉等で訣らぬところは、新しい学問の力を借りて、民俗を比較研究した上に、古い用語例を集め、此と照合して、調べて行かなければならない。古い神道家の神道説はまだよいが、新しいのは哲学化し、合理化してゐる。其代表とも見るべきは、筧克彦博士の神道である。其は、氏一人の神道であり、常識であるに過ぎないので、残念ながら、いまだ神道とは、申すことが出来ないのである。
 神ながらの道は、主上としての道であつて、我々の道ではない。類聚三代格に、出雲国造――政治上の権力と関係のない所は、国造と称することを、黙認してゐた。後には、公に認められた――筑前宗像国造が、采女と称して、国の女を召して自由にしてゐたのを、不都合だとして、禁止されたことが見えてゐる。当時にあつては、国造が、采女を自由にするのは、当然のことであつた。宮廷にあつても、現神として、天皇は、采女に会はれたのである。其生活を、前記国造等が、模倣してゐたのである。宮廷の神道が盛んになつて、出雲国造等の、言はゞ小さな神ながらの道と言ふべきものが、禁ぜられたのである。国造等の行うた、小さな神ながらの道も、神主たちにはあつても、民間にはなかつたのである。
 主上が神祭りの時に、神として行為せられるのが、惟神の道であつた。処が主上は、殆一年中、祭りをしてゐられるので、神と人との区別がつかなくなつた。神道家は、 現神を言語の上の譬喩だ、と思うてゐるが、古代人は、主上を、肉体をもつた神 即現神と信じてゐたのだ。
 惟神の道とは、今述べて来たやうに、主上の神としての道、即主上の宮廷に於ける生活其ものが、惟神の道であつた。今では、神道を道徳化してゐるが、何事でも、道徳的にのみ、物を見ると言ふ事は、いけない事である。道徳以上の情熱がなくては、神社は、記念碑以外の何物でもなくなつて了ふ。今日考へられてゐる神道は、もつと道徳以外に出て、生活其物に、這入つて来なければならない。宮廷の生活だと言うても、道徳的なことばかりでなく、いろいろな生活があつたのである。
神道の長い歴史の上から見ると、既に澆季の世のものである万葉集に、人麻呂は大宮人・労働者の区別なしに、その行為してゐることを「神ながらならし」と歌うてゐる。主上の御行動は、すべて惟神と感じ、毫も、道徳的には見てゐないといふ事は、我々も、惟神について、もう一度、考へ直して見ねばならぬ事実である。日本の神道は、新しく研究する余地の十分あるもので、国学の先輩によつて、研究し尽されたものではない。又、哲学的・倫理学的に見ることが、今直に、正しい見方だ、とする事は出来ないのである。  (折口信夫『古代研究Ⅱー祝詞の発生』)