更科紀行

更科紀行」貞享5年(1688)笈の小文に続き、更科姥捨山の月を見に行く旅。
  
旅立
① さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわ(はぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。
② 木曾路は山深く道さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。
③ をのをの心ざし尽すといへども、驛旅の事心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中々におかしき事のみ多し。
道連
④ 何々といふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、たゞむつむつとしたるが、腰たはむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、をのをの肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて馬に付て、我をその上にのす。
高山 奇峰
⑤ 高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のおもひをなし、尺地もたひらかならざれば、鞍のうへ静かならず。
⑥ 只あやうき煩のみやむ時なし。
九折
⑦ 桟はし・寝覚など過て、猿がばゝ・立ち峠などは四十八曲リとかや。
⑧ 九折重りて、雲路にたどる心地せらる。
⑨ 歩行より行ものさへ、眼くるめきたましゐしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるを、あとより見あげて、あやうき事かぎりなし。
⑩ 仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしさも我身にかへり見られて、あはの鳴門は波風もなかりけり。
姨捨 旅宿
⑪ 夜は草の枕を求て、昼のうち思ひもうけたるけしき、むすび捨たる発句など、矢立取出て、灯の下にめをとぢ、頭たゝきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物おもひするにやと推量し、我をなぐさめんとす。
⑫ わかき時をがみめぐりたる地、あみだのたふとき数をつくし、をのがあやしとおもひし事共はなしつゞくるぞ、風情のさはりとなりて何を云出る事もせず。
⑬ とてもまぎれたる月影の、かべの破れより木の間がくれにさし入て、引板の音、しかおふ声、所々にきこへける。
⑭ まことにかなしき秋の心爰に尽せり。
⑮ いでや、月のあるじに酒振まはん、といへば、さかづき持出たり。
 
⑯ よのつねに一めぐりもおほきに見えて、ふつゝかなる蒔繪をしたり。
 
⑰ 都の人はかゝるものは風情なしとて、手にもふれざりけるに、おもひもかけぬ興に入て、𤦭[王+靑]碗玉巵せいわんぎょくしの心ちせらるも所がらなり。
 
⑱ あの中に蒔絵書たし宿の月
 
発句
 桟
⑲ 桟やいのちをからむつたかづら
⑳ 桟や先おもひいづ馬むかへ
㉑ 雱晴れて桟ハ目もふさがれず 越人
㉒  姨捨
  俤や姥ひとりなく月の友  
更科
㉓ いざよひもまだ更科の郡かな
㉔ 更科や三よさの月見雲もなし 越人 
留別
㉕ ひよろひよろと尚露けしやをみなへし
  属目
㉖ 身にしみて大根からし秋の風
㉗ 木曾のとち浮世の人の土産かな
  留別
㉘ 送られつ別ツ果ては木曾の秋 
  寺
㉙  善光寺
  月影や四門四宗も只ひとつ
   浅間
㉚ 吹とばす石ハ浅間の野分哉
  跋
此記行終て後、乙州以謂、猶翁之文、かさね及ビ烏の賦、集々に洩ぬることを惜ミ、後集を加ンとおもひ企ぬ。
 宝永六年孟春慶旦
        江南栰々庵乙州梓之
  京都寺町二條上町
             書林 井筒屋庄兵衛/同 宇兵衛 版