野ざらし紀行(原文)

野ざらし紀行』(甲子吟行とも)  貞享2年(1685)刊   芭蕉40歳
  母の墓参のための帰郷を兼ねた関西旅行紀行文。蕉風確立期にあたる。
         
 1千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。
 野ざらしを心に風のしむ身かな 
 秋十年却て江戸を指故郷
関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。
 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、朋友信有哉、此人。
 深川や芭蕉を富士に預行  千里 
2 富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。
小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪まれたる歟、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。
 
3 大井川越る日は終日雨降ければ、
 秋の日の雨江戸に指折らん大井川 千里
  馬上吟
 道のべの木槿は馬に食はれけり
廿日余の月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里い  まだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚。
 馬に寝て残夢月遠し茶の煙 
 
4 松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとどむ。
腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢をかけて、手に十八の玉を携ふ。僧に似て塵有、俗に似て髪なし。
我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事を許さず。
暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほの暗く、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風身にしむ計深き心を起して、
 三十日月なし千年の杉を抱あらし
西行谷の麓に流あり。女どもの芋洗ふを見るに、
 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
其日の帰途、ある茶店に立寄けるに、てふと云ける女、「吾が名に発句せよ」と云て、白き絹出しけるに書付侍る。
 蘭の香や蝶の翅に薫物す
  閑人の茅舎を訪ひて
 蔦植て竹四五本のあらし哉 
 
5 長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、同胞の鬢白く、眉皺寄て、只命有て、とのみ云て言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老たり、としばらく泣きて、
 手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜 
 
6 大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は彼千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。
 綿弓や琵琶に慰む竹の奥
二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡千歳も経たるならむ、大いさ牛を隠す共云べけむ。かれ非情といへども、仏縁に引かれて、斧斤の罪を免がれたるぞ、幸にしてたつとし。
 僧朝顔幾死返る法の松 
 
7 独吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、煙雨谷を埋んで、山賤の家処々に小さく、西に木を伐音東に響き、院々の鐘の声は心の底にこたふ。
昔よりこの山に入て世を忘たる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土の廬山といはむも、またむべならずや。
  ある坊に一夜を借りて
 碪打て我に聞かせよや坊が妻
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。
彼とくとくの清水は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。
 露とくとく試みに浮世すすがばや
若これ扶桑に伯夷あらば、必口をすすがん。もし是許由に告ば、耳を洗はむ。
山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々見残して、先後醍醐帝御廟を拝む。
 御廟年経て忍は何をしのぶ草 
 
8 大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る。今須・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける「義朝殿に似たる秋風」とはいづれの所か似たりけん。我も又、
 義朝の心に似たり秋の風
  不 破
 秋風や藪も畠も不破の関
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ、
 死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 
 
9 桑名本当寺にて
 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て、
 明ぼのや白魚白きこと一寸
  熱田に詣
社頭大いに破れ、築地は倒れて叢に隠る。かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。蓬・忍、心のままに生たるぞ、中々にめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉
  名古屋に入道の程風吟す
 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉
 草枕犬も時雨るか夜の声
  雪見に歩きて
 市人よ此笠売らう雪の傘
  旅人を見る
 馬をさへながむる雪の朝哉
  海辺に日暮して
 海暮れて鴨の声ほのかに白し 
 
10 爰に草鞋を解き、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、
 年暮ぬ笠きて草鞋はきながら
といひいひも、山家に年を越て、
 誰が聟ぞ歯朶に餅負ふ丑の年 
 
11 奈良に出る道のほど
 春なれや名もなき山の薄霞
  二月堂に籠りて
 水取りや氷の僧の沓の音 
 
12 京に上りて、三井秋風が鳴滝の山家を訪ふ。
  梅林
 梅白し昨日や鶴を盗れし
 樫の木の花にかまはぬ姿かな
伏見西岸寺任口上人に逢て
 我が衣に伏見の桃の雫せよ 
 
13 大津に至る道、山路を越えて
 山路来て何やらゆかしすみれ草
  湖水の展望
 辛崎の松は花より朧にて
 水口にて、二十年を経て故人に逢ふ
 命二ッの中に生たる桜哉 
 
14 伊豆の国蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我が名を聞て、草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡を慕ひ来りければ、
 いざともに穂麦喰はん草枕
此僧予に告げていはく、円覚寺の大顛和尚今年睦月の初化し玉ふよし。まことや夢の心地せらるるに、先道より其角が許へ申遣しける。