「芭蕉の旅」に関する山本健吉の文章

    
             芭蕉西行を含め)の旅について           山本健吉

  旅は単に未知の風光に接することだけではない。それはまた人間の歴史と運命とを我々に教えるのである。吟行なんぞと称してけちな風景画を探して歩く手合は、所詮芭蕉の旅を栖とし、旅に果てることを思った悲しい心ばえとは無縁である。月日は百代の過客にして、行交う年も旅人との述懐には、芭蕉が神に憑かれたように漂泊の境涯を思いつめた詠嘆が打篭っている。「命なりけりさやの中山」と歌った人は、彼が片時も思いを離さなかった文学系譜上の先達であった。(中略」
 日本文学の伝統に於て、少くとも庶民の心に最も密接に触れ、その生活感情を美しく育て上げ来た文学の流れは、宗教的な旅行者の種を蒔いたものであって、それは我が民族性の上に強い色彩を残してもいるのだ。流離する神々をさえ思い描かねばならなかった我々の祖先は、どのような心からであったか。西行にしろ芭蕉にしろ、旅に憑かれ果てなき旅を思い描いたその一途さに於て、信仰者の情熱とも言うべきものを持っていた。
                                     (高館―『奥の細道』叙説)