ネオ連句「寺山修司・詩人死して」
お師匠さんの不遜先生は杳としてその後の消息を知らず。ただ当時の
連句熱が懐かしく、精神的充実感を振り返っております。このとき小生
は宣長なる俳号を頂きました。 以下、制作過程を再掲しておきます。
[リレー:夏石番矢→大西泰世→橋本夢道→住宅顕信→渡辺白泉→三橋敏雄→西東三鬼→金子兜太→高柳重信→寺山修司]
ネット新連句(歌仙)「寺山修司・詩人死して」~(四)三
スタート 平成二十一年十月三十日
ゴール 平成二十一年 月 日
メンバー 小童(B)・宣長(B)・不遜(B)
(一) 正調
一 詩人死して舞台は閉じぬ冬の鼻 寺山修司 冬
二 血は立ったまま立ち枯れている 小童 冬
三 名馬への望郷魂を揺るがせて 宣長 雑
四 ビラに落書き「祖国はありや」 不遜 雑
五 「ふるさとの訛りなくせし友」と月 小 秋 月
六 「今も咲けるや」陸奥秋草 宣 秋
(二) 破調
一 揚羽舞うスキャンダリストの名を遺し 不 春
二 刺客走らす春の朝雨 小 春
三 新宿区字恐山に宅急便 宣 雑
四 べたべたと牧羊神と女郎蜘蛛 不 夏 恋
五 母のなか糸ひく蛇の泳ぎをり 小 夏 恋
六 かくれんぼの鬼成人式に 宣 冬
七 「目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ」ものは何 不 雑
八 「キャベツをむくと芯が出る」して玉ねぎは 小 夏
九 麦藁帽寝ても醒めても被りししまま 宣 夏
十 願うこと皆輝きぬ極月の月 不 冬 月
十一 大山デブ子のわが身は花と散るらん 小 春 花
十二 新学期男女席を同じうして 宣 春
(三) 乱調
一 ボク テラヤマ ハ「汽車の口真似が上手かった」 不 雑
二 「義肢県灰郡入れ歯村」ミステリー・ツアー 小 雑
三 「売郷奴」罵声浴びれど「冬の手のひら閉じひらき」 宣 冬
四 ポー! ポー! ポー! ポー! ボクハ五月ニ誕生シタ 不 夏
五 仮想メモリ不足のおたまじゃくしのまんまで死にたかった 小 春
六 游游子 賭博師 魔術師 昭和席捲 いつも心は春色 宣 春
七 彼は定型子をこよなく愛しロバの如く仕えた 不 雑 恋
八 不倫に義理はないけれど、たまにはお前からメールしろオバケ 小 雑 恋
九 ぺらぺらと薄っぺらいからこそ奥深いアッパッパ 宣 夏 恋
十 ブラックスワンが月下の海を泳いでいる 不 冬 月
十一 太古より石工ノミ打つ猿の惑星 小 雑
十二 地球の重さに叶う打ち出の詞術 宣 雑
(四) 正調
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
二 小 雑は不可
三 宣 オール二去り
(下野通信)
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
http://blgs.yahoo.co.jp/seisei14/57488863.html
↓
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば(修司)
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
これらについては、先に触れたところであるが、その上述のものに付け加えて、まずもって、修司の眼前には、「五七五七七」という「定型の鋳型」がある。そして、その「定型の鋳型」を見ていると、私淑する秋元不死男の一句が想起してくるのである。そして、「鳥」は、和歌・連歌の時代から詠い継がれてきたところの、「雁」に変身をするのである。その古典的な「雅語」に対して、ここは、平仮名表記の「こきこきこき」が、「俗語」の無機質的な「コキコキコキ」が絶対的な「擬態語」・「擬音語」(オノマトペ)として動かないものとなってくる。そして、俳句の下五の「罐切れば」は、短歌の下の句(七七)の七の「罐詰切れば」と、これまた、動かない。それらの骨格が出来上がって、その後は、「スラスラスラ」と「わが下宿・北へゆく『雁』・今日見ゆる・『コキコキコキ』と・『罐詰切れば』」が、口をついて出てくるのである。
(湘南通信)
十二 地球の重さに叶う打ち出の詞術 宣 雑
(四) 正調
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
二 ときには秋のない秋のよう 小 秋
『時には母のない子のように』1969/紅白歌合戦
歌手:カルメン・マキ
作詞:寺山修司
作曲:田中未知
http://www.youtube.com/watch?v=BGFF-1w2KOw
◇コメントA◇
当時中学生っだった私は彼女の登場に衝撃を受けました。女性とは思えない衣装、裸足、洗いざらしのロングヘアー、それまでの華美な女性歌手とは全く異なる彼女に強く惹かれ憧れました。寺山先生の詩が物悲しく全てが憧れでした。彼女の神秘的な美しさ最高に好きでした。アップありがとうございます。
◇コメントB◇
革命の美しい夢が、かなわぬ幻想でしかないと悟った70年安保世代の挽歌です。ちなみに60年安保世代は、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」だそうです。
◇コメントC◇
「ときにはははの ないこのように」これは七七ではないか。なるほど(小童)
(讃岐通信)
(四) 正調
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
二 ときには秋のない秋のよう 小 秋
三 本家取り父母を斬る大技に 宣 雑
○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
(「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。
寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となった一句選である。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司)
posted by yahantei @ 12:08 午前
ネット新連句(歌仙)「寺山修司・詩人死して」~(四)三
スタート 平成二十一年十月三十日
ゴール 平成二十一年 月 日
メンバー 小童(B)・宣長(B)・不遜(B)
(一) 正調
一 詩人死して舞台は閉じぬ冬の鼻 寺山修司 冬
二 血は立ったまま立ち枯れている 小童 冬
三 名馬への望郷魂を揺るがせて 宣長 雑
四 ビラに落書き「祖国はありや」 不遜 雑
五 「ふるさとの訛りなくせし友」と月 小 秋 月
六 「今も咲けるや」陸奥秋草 宣 秋
(二) 破調
一 揚羽舞うスキャンダリストの名を遺し 不 春
二 刺客走らす春の朝雨 小 春
三 新宿区字恐山に宅急便 宣 雑
四 べたべたと牧羊神と女郎蜘蛛 不 夏 恋
五 母のなか糸ひく蛇の泳ぎをり 小 夏 恋
六 かくれんぼの鬼成人式に 宣 冬
七 「目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ」ものは何 不 雑
八 「キャベツをむくと芯が出る」して玉ねぎは 小 夏
九 麦藁帽寝ても醒めても被りししまま 宣 夏
十 願うこと皆輝きぬ極月の月 不 冬 月
十一 大山デブ子のわが身は花と散るらん 小 春 花
十二 新学期男女席を同じうして 宣 春
(三) 乱調
一 ボク テラヤマ ハ「汽車の口真似が上手かった」 不 雑
二 「義肢県灰郡入れ歯村」ミステリー・ツアー 小 雑
三 「売郷奴」罵声浴びれど「冬の手のひら閉じひらき」 宣 冬
四 ポー! ポー! ポー! ポー! ボクハ五月ニ誕生シタ 不 夏
五 仮想メモリ不足のおたまじゃくしのまんまで死にたかった 小 春
六 游游子 賭博師 魔術師 昭和席捲 いつも心は春色 宣 春
七 彼は定型子をこよなく愛しロバの如く仕えた 不 雑 恋
八 不倫に義理はないけれど、たまにはお前からメールしろオバケ 小 雑 恋
九 ぺらぺらと薄っぺらいからこそ奥深いアッパッパ 宣 夏 恋
十 ブラックスワンが月下の海を泳いでいる 不 冬 月
十一 太古より石工ノミ打つ猿の惑星 小 雑
十二 地球の重さに叶う打ち出の詞術 宣 雑
(四) 正調
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
二 小 雑は不可
三 宣 オール二去り
(下野通信)
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
http://blgs.yahoo.co.jp/seisei14/57488863.html
↓
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば(修司)
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
これらについては、先に触れたところであるが、その上述のものに付け加えて、まずもって、修司の眼前には、「五七五七七」という「定型の鋳型」がある。そして、その「定型の鋳型」を見ていると、私淑する秋元不死男の一句が想起してくるのである。そして、「鳥」は、和歌・連歌の時代から詠い継がれてきたところの、「雁」に変身をするのである。その古典的な「雅語」に対して、ここは、平仮名表記の「こきこきこき」が、「俗語」の無機質的な「コキコキコキ」が絶対的な「擬態語」・「擬音語」(オノマトペ)として動かないものとなってくる。そして、俳句の下五の「罐切れば」は、短歌の下の句(七七)の七の「罐詰切れば」と、これまた、動かない。それらの骨格が出来上がって、その後は、「スラスラスラ」と「わが下宿・北へゆく『雁』・今日見ゆる・『コキコキコキ』と・『罐詰切れば』」が、口をついて出てくるのである。
(湘南通信)
十二 地球の重さに叶う打ち出の詞術 宣 雑
(四) 正調
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
二 ときには秋のない秋のよう 小 秋
『時には母のない子のように』1969/紅白歌合戦
歌手:カルメン・マキ
作詞:寺山修司
作曲:田中未知
http://www.youtube.com/watch?v=BGFF-1w2KOw
◇コメントA◇
当時中学生っだった私は彼女の登場に衝撃を受けました。女性とは思えない衣装、裸足、洗いざらしのロングヘアー、それまでの華美な女性歌手とは全く異なる彼女に強く惹かれ憧れました。寺山先生の詩が物悲しく全てが憧れでした。彼女の神秘的な美しさ最高に好きでした。アップありがとうございます。
◇コメントB◇
革命の美しい夢が、かなわぬ幻想でしかないと悟った70年安保世代の挽歌です。ちなみに60年安保世代は、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」だそうです。
◇コメントC◇
「ときにはははの ないこのように」これは七七ではないか。なるほど(小童)
(讃岐通信)
(四) 正調
一 病む雁の修司の軽さ知りにけり 不 秋
二 ときには秋のない秋のよう 小 秋
三 本家取り父母を斬る大技に 宣 雑
○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
(「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。
寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となった一句選である。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司)
posted by yahantei @ 12:08 午前