日本の近代標準語

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  江戸語でも方言でもなく、当時の東京語を標準語にするのがいいと悟った。
 「おっかさん」ではなく、「おかあさん」(オカ―サン) この長母音が新しい日本語の優しさとなった。言語学者上田万年の小学国語讀本に寄せる思いがこもっていた。
  明治期に日本語そのものが大きく動揺していた中で、西洋の言語学を積極的にとりいれ、また日本の国学の伝統を批判的に継承して、標準語や仮名遣いの統一化に尽力した功績は大きい。その一方で彼の強力な統一思想は明治後期から現代に至るまで150年以上に渡る方言廃絶主義を国家の教育として推し進める原点となり、沖縄の罰札制度に代表されるような非標準語地域の人々の心理的圧迫や、国家の言語の多様性を失わせる結果となった。
文部省著作の「尋常小学唱歌」の歌詞校閲担当者の一人であり、今日著名な高野辰之よりも権限が大きい立場での校閲者であった。東京(江戸)生まれでドイツ留学という点で、「尋常小学唱歌」作曲主任であった東京音楽学校の島崎赤太郎教授とは標準語のアクセント重視という点で気脈を通じていたと考えられる。
上田万年が行った言語研究の中での最大の功績は、1901年にドイツで行われた正   書法を日本の言語政策に応用しようとした点である。 旧仮名遣いの混乱を質すために、すでに明治維新以来「言文一致」への移行が必要なことは誰の目にも明らかだった。1901年上田万年は、言語学会などを立ち上げながら、明治期にできる最新の方法で「言文一致」の表記を勘案した。長音記号の「−」の採用、また1903年発行『仮名遣教科書』に見える新仮名遣い(これを「発音式」と呼ぶ)などがこれである。 この仮名遣いは、文部省内においても、初等教育での教科書にほとんど採用の予定であったが、岡田良平、森鷗外など旧仮名遣いに固執する人々による運動の末、1907年に貴族院が発音式から歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を文部大臣に提出、また1908年臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅する。 上田万年が日本の言語学及び国語学において果たした役割は大きい。

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