8月28日

 過去42年間、日記を書いて来た。その日の日記帳1行も1字も余さず埋めて来た。
   
 昭和四十九年八月二十八日 曇
三十七歳誕生日である。千絵がだいぶ前からプレゼントを用意してくれていて、夕食が住んで贈呈された。絵本は特に念入りに作っていて感心した。子どもにこんなにされるとは全く嬉しい限りである。まだまだ二十年は生きて、この子等を見守ってやらねばならぬ。たとえ平凡でもいい、生きていてやること、食うに困らぬように働いてやること、それは親としての最低の務めである。年老いてゆくことも子どもの成長を喜びとして生きてゆこう。
  昭和五十年八月二十八日 晴
三十八歳誕生日、佳文の顔や手足に「おたんじょうびおめでとう、その他の落書きを千絵がして、見せに来て笑わせる。夕方、山田の海へ行く。千絵は自転車で干拓地を一周した。
 昭和五十一年八月二十八日 晴
三十九歳誕生日、千絵と佳文が折り紙などをして箱に入れて贈ってくれる。「おとうさんおめでとう」と言う。おめでたいものか、やがて四十歳、ぞっとする。下の田んぼの草取り、これはひどいもの、成長株の多いこと。夕方、筒井家三人来る。 子どもたちは眠そうにしているが、急いで風呂に入り寝る。朝夕膚冷さを最近覚えるようにになった。
 昭和五十二年八月二十八日
満四十歳誕生日、夢にも想像できなかった四十男になった。十年前三十男となった時、母はすでに死の床にあった。これから十年後、自分の人生はどんな展開をするか、おそらく大きな異変はなかろう。後十年は居た大師、生きられると思う。
 昭和五十八年八月二十八日
母の十七年の法事、お経二十分ですんで早く終わったとの思いの外、後のお説教が同じぐらい世間話で人の心に訴えるところが少なく、いつものことながら退屈させられる。わが四十六歳の誕生日も母の法事で費やされる。
 昭和六十二年八月二十八日
満五十歳誕生日。まだ若者のように欲望を持ち、心は衰えていない。「津軽頌歌」小説(五十枚)を完成させる。愛欲の薄められたものだ。郵送するとほっとする。これで夏休みも終わった気がする。何か虚脱感があり、次に待つものが十月の研究会なのかもしれぬ。夜は国語学習指導案の補正。
 昭和六十三年八月二十八日
わが五十一歳誕生日也。佳文より色紙贈らる。 碧空に雲明らかや夏野ゆく
頭痛いのはどうしてか。血圧が低くなっているのか。高瀬高校のスーパーインポーズのこと考える。
 平成元年八月二十八日
トルストイゲーテも今日が誕生日。このような文豪となることは不可能と思えども、残された年月、いい作品を書き残したい。 ネクタイをして人を待てども人は来ず
さもあればあれ、身近に限りなく佳人あり。
 平成二年八月二十八日
NHKイブニング香川「青春デンデケの観音寺の反響」にテレビ出演。五十四歳誕生日にテレビに出られるとは。観音寺震度3の地震あり。自分の小説無帽の原稿「梓」(六七枚)、随筆無帽「満足する」送付。
 平成五年八月二十八日
五十六歳誕生日、にわかに思いついて、自筆歌集『忘れな草』、自筆句集『彼岸花』それぞれ三十部ずつできる。これまで自費出版の著作には記録『鍬の戦士』、小説集『連翹の島』、研究『西行伝説の風景』、エッセー『動詞の相貌』がある。
 平成八年八月二十八日
「観一の今昔」VTRの構成を考える。三中戦没者安藤貴男先輩の墓碑確認に常盤墓地に行く。詫間桜谷マリ子さんより義母の歌稿五三首届く。ワープロに打ってくれていたのでそのままコピー、28冊できる。我五十九歳の誕生日かくして終わる。
 平成九年八月二十八日
佳文が父親六十歳の誕生日とて「朗読通信ー」テープ贈ってくれる。ささやかなれど、この子の優しさ。  三中戦没者『鎮魂譜』の前編(概略)は先輩石川宙夫氏、後編(個人)は自分が分担、本書は共編ということになる。相棒としてはこれ以上はない先輩。
 平成十二年八月二十八日
十一時豊田先生の車で合田浩一先生の墓参。仏前にはこれまでの句にプラス越前旅中の歌仙を合わせて供える。子どもとおじいさん留守番。佳文がいないので、何も祝い物なし。色紙二枚、琴弾公園松林、竜胆描く。加藤亜希子より引越し通知はがき来る。
 平成十三年八月二十八日
大伴家持没。七八四年(六八歳、多賀城にて) このことはうかつだった。無帽四五五号「終戦記念日」一日で仕上げる。詫間と柞田の飛行場を比較し、倉本さんの本を紹介する。万葉に関して書こうとして乗ってゆけずに終わった。六四という老年をひしと感じ、ただただ淋しい。
 平成十六年八月二十八日
滿洲戦没遺児の会、金毘羅とら丸旅館泊。五時起床、金比羅宮本宮、奥社まで一向六人で参拝。朝食後、ジャンボタクシーで善通寺に参拝、高速道路で高松へ、栗林公園へ案内、さぬき麺業で昼うどんを食べて接待終わり、解散。ほっとして帰宅。
 平成十九年八月二十八日
七十歳誕生日。石川マサヱさん、仏さん参りに来てくれて感激する。母や小田梅乃さんやと親しくしてくれていたのでということで。 渡月へ「中田兄妹祝歌」五言絶句   架夢渡月橋(起) 鈴響招幸福(承) 波音続永遠(転) 常夏生平和(結) 贈る。
 平成二十三年八月二十八日
豊田公民館前の小野篁歌碑というのは間違い。讃岐香川には無縁の人。小野高介(篁村)の辞世であった。あるはずのないものは、あるはずがない。どこで混線したのか。『全国文学碑総覧』が個人で全国津々浦々を調べきれるはずがない。
 平成二十四年八月二十八日
十三時半より観音寺市文化財保護協会代表理事会、議事進行は会長。帰りにカバン忘れ、持って来てくれる。夜、フランスから合谷さんから講演打ち合わせ電話。気さくな、しかし一徹な人だとみる。四歳の孫娘夏から誕生祝いの電話あり、八十五歳の恩師岸上先生からも。今日はいい日だ。 今日はいい日だった。しっかり余生を生きねば。
 平成二十六年八月二十八日
観音寺中央図書館より電話あり、詫間さんという人が漢詩の意味を知りたいと言っているという。自転車ですぐ行ってあげる。ざっと読み、帰宅して丁寧に解釈して明日送ってあげるつもり。七七歳誕生日、家でにぎりずしで祝ってくれる。さて喜寿を迎え、余名いくばくもないが、充実させて有終の美をと思う。
 平成二十七年八月二十八日
七八歳まで生きたとて喜べない。父は満洲の異境に四四歳の無念の死。母も六三歳の病死、看護をほとんどしてあげられなかった。自分だけ七八歳まで生きて、何がうれしかろう。薬を飲まない。医者にはつかない。医学に頼らない。自然に生き、自然に死んでいく。
 平成二十八年八月二十八日
四十二年間一日も欠かすことなく、一行も余すことなく日記帳を埋めて来た。我が誕生日の日記を全て抜書きしようとしたが、平凡な記載が多くあって、途中かなり略している。見知らぬ他人の面白くもない日記にどれほどの興味があろう。誰一人読んでくれないことを承知で自分自身の空しい後付をしてみた。全て我が営みは些事也。