戦時遺話二題

  【清隆さんが復員した時のこと】
 菓子店のタガやんは、終戦の直前8月8日病気で亡くなった。9月初めに息子の清隆さんが復員するまで待てなかった。家族の者は、清隆さんが帰って母親がすでに死んだと知ったらショックを受けると思って(軍隊でひもじい思いをしていただろうから)「白ごはんを食べさせてから、話そう」と打ち合わせていた。
 ところが、清隆さんが帰った時近所の人が遊びに来ていて、
清隆さんが「おかあは?」と聞いた時、
勝っぁんは「おかあ死んだがい」といとも簡単に言ってしまった。
 その時、清隆さんはどんな反応を示したかこれまで私は知らなかった。この度戦後66年目に初めて姪のみよちゃん(その時16歳)が証言してくれた。「清隆さんはポンプのところでしきりに顔を洗っていた」と。
 説明するまでもなく、母親に会いたくて我が家に帰って来たのに、母親はすでに死んでいた。母親一人に育てられた者にとっては、限りなく無念なことであったのだ。近所の人の居る手前、大泣きにも泣けず、何度も何度も井戸水で涙を洗っていたのだった。
 
  【義母の思いを受け継ぐ嫁】
 原田二郎は22歳で戦死した。母親カツはすでに死んで久しいが、弟嫁は嫁ぎ先の旦那の弟なので、全然知らない人であっても、戦死した義兄のお墓詣りを心をこめてしている。
 雨が降ったら「雨に濡れたら冷たいから、お墓に傘さしかけに行ってやろうか」と義母が言っていたのを思い出す。その時はなんとも思わなかったが、
「この年になってみると、子どもに死なれた親の気持ちが分かるようになりました」と言われる。
 私が「妻も子もなく戦死したは次第に忘れられていきますね」と言うと、
「そうです。それで私も義母の気持ちになって供養しています」ときっぱり言われた。
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                   (再録) 但し、一般には公表していなかった雑文。