小説「比翼塚」

        小説「比翼塚」           剣持雅澄

  新居の落成祝いの宴会があった。天皇は自ら琴を弾かれ、皇后は立って舞われた。舞が終わったが、皇后は礼事を何も言われなかった。当時の風俗は宴会のとき、舞う人は舞い終わると、その座の長に向かって「娘子を奉りましょう」と言うことになつていた。
そこで天皇は皇后に言われた。
「何故、常の礼をしないの」
皇后は畏まってまた立って舞われ、終わってから言われた。
「娘子を奉りましょう」
「奉る娘子は誰か。名前を知りたいと思う」
皇后木梨軽皇子がその治世の十六年目の年、妹たちを率いて伊予の温泉に行幸していたその留守に、かねてから皇位に野望を抱いていた穴穂皇子は兵を起こして畿内を制圧し、伊予国にも軽皇子を入れるなと命令を下し、来島海峡を封鎖させたので,行き場を失った軽皇子はやむを得ず宇摩郡に上陸したが、そこで亡くなったというストーリーである。ちょうど斉明天皇紀伊の湯に行幸になった留守に有間皇子が兵を挙げようとした事件と同じ筋書きである。身からでた錆だとか、自己責任だとか言ってしまえばそれまでであろうが、血のつながりのある他者に滅ぼされ呪い殺されるというおぞましさがあった。
兄君ならいざ知らず、弟君に追い払われ逃れ来た宮様に対する同情は、この地においてひそやかに潜在している。
「誉められた話ではないけど、魂鎮めはしてあげねば・・・」
「子どもに話してやれることでもないしな」
軽皇子を祀る東宮神社は、妻鳥東宮山古墳の傍らにあって、質素ながらもお祀りしている。
この奥処に棲んでここに参ずるを常とする一人の媼があった。百歳に近く杖にすがってこの社にとぼとぼ歩いて来るのを楽しみとしていた。媼は問わず語りに、ぽつりぽつりと六十年前を語り始めた。 
「息子は美術学校に行っていた時、学徒出陣でフィリピンに征って戦死しました。遺骨は帰っていません。あの当時のことを思い出していたら、せつないことばかりですよ。娘のことで、あれこれ心配しましてな:兄妹が夫婦みたいに仲がよかったもので、よけいな心配をしましてな、死んでしまいそうで神経衰弱になっとりましたわ・・・娘は戦後まもなく病気で亡くなってしまいました」
宮内庁陵墓管理を任されている佐野は媼の独り語りを聞きながら、世の親心に思いを馳せるのだった。絶対あるはずのないことだけれど、老婆心からよけいな心配をするものであると。
「見てほしいものがあるんだけどな」
媼は佐野に言い寄ってきた。
「生きていたら、うちの息子もあんたくらいになっとる思う」
「・・・見せてくれるものは何でしょう」
「まあ、うちへ来てくだはれ」
 呼ばれて行った家にあったのは、油彩の女性像だった。
「息子が出征する前に描いた娘の姿なんですよ。ようできとるでしょう」
「いやあ、すばしい絵ですね」
初々しい里の娘の裸身像:出陣前に限られた時間の中で必死で描いた戦没学徒の絵だった。
「これは宝物でしょう」
媼は大きくうなずいた。と同時にこう呟いた。
「どこから聞きつけたのか、ある人が買い取りにきたりしたのですが、人手に渡したりしません。この絵は私の命そのものですからな」
「それはそうでしょう。形見と言うより本尊様でしょう」
 ただの絵ではなく、女菩薩になった娘であった。息子の霊魂を宿した、なんとも曰く言い難い宿命:愛の謎説きを背負わされているものでもあった。人間が人間としてという倫理観から決めた呪縛から解き放たれるべきことまで考えさせられる美の領域に属しているものでもあった。
互いに許されぬ恋に身を焦がし、死を選ぶしかなかった兄妹の悲恋物語。それを護持するかのごときこの四国の片田舎(ここを今平成の大合併によって四国中央市などと大それた名にした恥ずかしさはさておき)に昭和の翳りを受け入れながら純愛とは何かを形作った文化遺産であることにまちがいなかった。
同母妹を愛していけないと言う法律はどこにもない。あるのは民法で三親等以内の婚姻が禁止されていことだけである。同じ母親に育てられる兄妹は、初めての異性として接しながら育っていく。親に見守られながら、過ちを犯してはならないという人間としての原初的タブーを授かる。「そんなことするんでありません」と母親に叱られた思い出をもつ人もあろう。
同父妹に関係しても、罪にならなかったのが古代であった。それはおおらかさというより致し方のないことだった。母系家族中心の社会であった古代において、父親が他の女に産ませた子などはっきりしないのが普通である。同母兄妹は一緒に育つのでよく分かる。抜き差しならない。異父兄妹はどうか。父が違えばいいかと言うに、それはいいとは言えないだろう。ただ認知だけにゆだねられることになる。同母兄妹禁忌は世の人に分かりやすいのである。優性遺伝という観念を本能的に悟った、古代人の知恵であった。
「どんなに謹厳実直な人も色香に迷うことがありますからね」
「世の中、そんな色恋沙汰では済まないものな」
「・・・何がどうだったというのでしょう」
「死ですよ。戦争は死ですからね。その極限状態を前にして、愛する者を抱きたい、生の証しを残したい、しかし、潔く征きたいと思う」
「ジレンマ」
高齢の媼が信じられないほどしっかりしたことを言うので、男はただただ敬服して言葉を失っていた。
「惜しげもなく、みごとに、戦争は愛し子を奪っていきました。嫁も子もなく逝って六十年、ずっと供養はしてやりましたよ。戦死者の親でまだ生きてる人はほとんどおりません。近くでは私だけです。あの子は生きていたら、きっと立派な絵かきさんになっていたでしょう。この絵を見れば分かるでしょう。いえ、それは親馬鹿というものでしょうが、この絵は魂の生き写しに思えるのですよ」
「魂の生き写し・・・」
「そう、魂の感合みたいなものですかな」
辞書にないようなことばを使うのでたじろぎながらも、四国の片田舎にこんな媼の、ひそと生息していたことに驚くのだった。
自分は宮内庁陵墓管理人として時々見回りに来るだけで、地元の人にはほとんど付き合いはなく、請け負わせている労務者と必要なことだけしかしゃべらないが、今日はどういう風の吹き回しか、人生の機微に触れることになったと思う。
 ひるがえって、この陵墓に葬られているいるかもしれない軽皇子(かけまくかしこき天皇の皇子)の生涯も、心ならずも若くして死を余儀なくされた悲運の人ではあった。
 皇子同士の皇位継承争い、即ち皇室の内輪もめに過ぎないとみれば、取るに足りないことかも知れない。ただ、その渦に翻弄されながらも純愛を通そうとし、ぎりぎりのところで執拗に歌を詠み交わす一途な純情が現されている点で、唯美の価値を秘めているとは言うことができる。遠い日の絵空事として無視してしまっても致し方のないことだった。倫理的観点からすれば、非難の対象にされてしまう事象ではありながら、なんとか後世の人々によって救済され、同情されているのは、一連の歌の偽らざる恋情の吐露、その真率さだった。大きな時代的観点からすれば、万葉集編者の温情によって永遠の命を帯び、不倫地獄から救い出されているのだった。
万葉前期の古墳文化の保持、その一翼を担ってこの田舎の片隅に暮らしている。我が仕事の重要性を感じてのことではない。不心得者に荒らされないか、見張りをしているにすぎない。


「私の妹、名は弟姫です」
その弟姫は容姿絶妙で並ぶ者がなかった。麗しい体の輝きは、衣を通して外に現れていた。時の人はそれを衣通郎姫と言った。
日本書紀』の原文は次のように記されている。
 (容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是人号曰衣通郎姫也)
 允恭天皇の心は衣通郎姫に傾いていった。
翌日使者を遣わし弟姫を呼ばれた。
弟姫は姉の皇后忍坂大中姫の心を察して、重ねて七回お召しになったが、参上しなかった。
「私は死んでも参ることはできません」
使者が七日間庭に伏して頼んで、やっと迎え入れることができた。天皇が歓んだのは言うまでもないが、皇后の嫉妬で悩まなければならなくなる。
 衣通郎姫は『古事記』では悲劇をもたらす、允恭天皇の娘、軽大娘皇女の別名となっている。
「鳥たちを見てごらん。兄妹などおかまいなしにつるんでるじゃない。愛し合う人間に許さないはずないんだ」                                       
「いけないことよ。世の中の掟を破れば、罪咎を与えられましょうに」
「いいんだ。もうどうなってもいいんだ」
木梨軽皇子は軽大娘皇女を奪った。二人は生まれた時から一つ家に育った。一つ家?宮中の御殿も一つ家と言えよう。允恭天皇を父、忍坂大中津姫を母とする兄妹で、絶対に結婚できない禁忌があったにもかかわらず、年頃になると、二人は離れられなくなってしまった。普通、血の繋がらない男女の出会いは、ふとした機縁があって結ばれていく。同母兄妹の場合、偶然の気まぐれではないので、
じっくり育った愛であるだけに、抜き差しならない深刻さが潜んでいる。
「太子,恒に大娘皇女と合はせむと念す:感でたまふ情すでに盛にして,殆に死するに至りまさむとす」と『日本書紀』は皇子の情炎にまで立ち至って述べている。 
長男木梨軽皇子は太子であって、皇位継承一位の人だった。
 允恭天皇二十四年夏六月、帝の御膳の羮の汁が凍ることがあった。天皇は怪しまれて、その原因を占われた。卜者が言った。
「内の乱れがあります。思うに同母の兄妹の相姦があるのではないでしょうか」
ときにある人が言った。
「木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女が通じておられます」
よって調べてみると、言葉どおりであった。太子は天皇の世継ぎとなる人である。処刑がむつかしいので、大娘皇女を伊予に移された。そのとき太子が歌を詠まれた。
大君を 島に放り 船余り い還り来むぞ 我が畳斎め 言をこそ 畳と言はめ 我が妻を斎め
〈大君を島に放逐しても 船に人数が多すぎて 乗れずに きっと帰ってくるだろうから 畳を  潔斎して待っていなさい いや言葉では畳というが 実はわが妻よ 潔斎して待っていなさい〉
そんな励ましの歌を書いてやりながら、こんな弱音も吐くのだった。
「軽嬢子よ、ひどく泣いたら、人が気づくかもしれないから、私は幡舎の山の鳩のように低い声で忍びなきをするだろうよ」
 父允恭天皇崩御後、軽皇子がまだ即位しないうちにこの問題は起きた。本来ならば身内の醜聞を隠すのが普通だが、この時とばかり弟が企みを起こす事態になってしまう。
「容姿佳麗し。見る者自づからに感でぬ」とその美男子ぶりを伝えている。更に、軽大娘皇女も「亦艶妙し」と美女であった。この姫の名を衣通王と言って、その身体が白く輝いて、衣の外にまで光って見えた。
 面長で切れ長の眼に、ほのかな色香が漂い、兄弟からして他の男に渡したくないと思わせる天性の魅力をそなえていた。当時異母兄妹の結婚は許されていたが、同母の長男と次女、第一子と第五子が、こともあろうに、父帝の物忌みの期間に過ちを犯したのだった。密通がばれたとて、事を荒立てなくていいではないかとも言えるが、それを殊更に表沙汰にして追い詰めていったのはその弟穴穂皇子(後の安康天皇)だった。
身の危険を感じた木梨軽皇子は警護役の物部大前宿弥の所に逃げ込み、武器を造り備えたが、同じく武器を集め決戦に備えていた穴穂皇子の軍に取り囲まれ、最後は自害して果てたという。
古事記』では、「そんなことをすると、世間の物笑いの種になるからお止めなさいよ」と宿祢に止められて「故,其の太子は、伊予の湯に流しき」とある。
自害したのか、配流になったのか、事実のほどは定かではない。定かなことは、互いに情熱を繰り返し歌に託していることである。

    軽皇子
  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下娉ひに 我が問ふ妹を 下泣きに 我が泣く  妻を 今夜こそは 安く肌触れ
  (山の中に、山田を作り、山が高いので、水を引くための下樋を走らせ、そのようにひそかに、   私が言い寄る妹に、人目を忍んで、私が慕い泣く妻に、今夜こそは、心安らかにその肌に触れたことだ)
    
   別れを嘆いて贈った軽大娘(衣通王)の歌
  夏草の あひねの浜の 蠣貝に 足踏ますな 明して通れ
  (夏草の靡き伏す、あひねの浜というところは、蠣の貝殻が多いと聞いています。貝殻を践んでお  怪我をなさいますな。夜明けを待ってお通りなさいませ)

その後になっても、流罪になった兄君を恋い慕う気持ちをとどめることができなかった。そこで伊予の国まで兄君の跡を追っていった。

  君が往き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
(あなたがお出かけになってから、ずいぶんと日が経ちました。
  山たずの葉が向かい合うように、お迎えにまいります。じっとお待ちしてなんかいられません)

それを迎えて詠んだ長歌があり、真玉のように懐かしく思う妹、鏡のように懐かしく思う妻とたたみかける。妹は妻なのである。
「かく歌ひて、即ち共に自ら死にたまひき」と『古事記』は二人の心中を暗示している。伊予道後温泉には五輪の比翼塚がある。幸薄き悲恋の二人を惜しむかのように供養塔を建てているのである。
我が国文献上に残る初めての近親相姦「天国に結ぶ恋」としてひそかに語り伝えるものである。
別伝があって、四国中央市川之江東宮山春宮神社は軽太子を祀る陵墓参考地になっている。
大和から瀬戸内海を舟に乗って松山道後に向かう途中、暴風雨に遭い、この浜辺に漂着。浦人畏みて清浄森厳な丘辺に宮居を建立、ここに太子を遷し奉り、幾年月を過ごされた後、悲運の生涯を閉じられたと言う。皇女はどうなったかは伝えていない。
明治の中頃の古墳発掘調査によって決定的な遺物は出て来なかったらしいが、地方豪族にはあらぬ高貴なる被葬者とみなされる、以下のものが出土していて、宮内庁に保管されているという。
鏡:長宜子孫銘内行花文鏡。装身具:金銅透彫帯冠、金環、銀平玉、水晶切子玉、碧玉管玉、琥珀棗玉、銀小鈴。
これでもって木梨軽皇子の墳墓であるとは言えず、ただ陵墓参考地として指定されているにすぎない。そこで、考古学上の真実追求を目的としない、伝説に基づく悲恋物語が成り立っていく。貴種流離の地と伝えられて千数百年、想像をたくましくして、一編の哀話が語られることになる。

日頃は何の新鮮みも進展もなく、さびさびと過ぎゆくことに男は何やら満たされないものがあった。ところが、今日はどうだろう。閉ざされていた魔法の小箱が、老婆の杖によって難なく開かれて、そこに目眩く青春の幻像を見ることができた。この切ないほどの片隅の美が語りかけるものこそ実はこれが本物であることを訴えかけているようなき気がしてならなかった。
常にプラトニックラブを余儀なくされる兄妹愛がこの絵に関する限りきわめて危なっかしい。
「芸術的昇華に喘いでいたのでしょう」
男の鋭い切り込み様に媼は薄笑みを浮かべて応えた。
「それが心配だつた当時も今は昔話になってしまいましたな」
「何もかにも昔話になっちまいましたよね」
これで終わってしまっては心の憂さが晴れないと思う彼は強引に、
「理不尽な戦に駆り出された男のその蔭に女子ども、そして親たちがいたのですね」
「よその人のことは分からんけれど、嫁ももらわず征って還らん息子、嫁にも行かず死んだ娘・・・でも、ここには息子が描いた娘の絵があるんだから、二人とも今も生きてる気がするでな」
時を越えて生命の付与されたものを大切にする媼の心根に、彼は痺れる思いだった。
(いつまでも持っておれるわけでもないし、私に預からしてくれませんか)
一番言いたいことはこの言葉だった。しかし、これまで生きてこられたのはこの「命の絵」が手元にあったからである。それを非情にもむしり取ることは、いくらなんでもできない相談ではあった。先ほども買い取り手があったが、断ったと話したばかりの絵を(私が大切に保存してあげます)などと言い出せるものではなかった。話柄はこう転じた。
「ここに葬られている軽皇子は人の道に反することはしたけれど、いい歌はたくさん残してますよ。誰はばかることない、ひたすらな愛の歌ですよ。それが今も伝わっているのは、歌集に編んで残す人があったからです。この絵もまちがいなく後世に残しておくべき、傑作なんです。少なくとも、人の心にほのぼのと光明を灯してくれます」
「かたじけなくも皇族と比べていただき、ありがたいと言うより、滅相もないと言うのがほんまのところです」
「突拍子もないこととお思いでしょうが、因縁ということは信じてくれるでしょうな」
「何の因縁でしょう」
「こじつけかも知れませんが、本当は天皇になるはずの皇子が流されてここに眠っていること自体不思議な縁でしょう。それからあとは私見でして、兄妹愛、その愛の結晶としての歌・絵、そして戦いに敗れて命を落としたこと」
「・・・偉い人は難しいことを考えるんですな」
「そんな皮肉言わないでください。それより、驚きましたな。川之江にもこんな偉い女人が隠れ棲んでいたとは:」
「お調子に乗って、即興の都々逸でも一つ・・・ふふふ二名のこの山姥を生ける化石となぜ言わぬ」   微笑む媼にまだ歯が揃っている。長生きしても子たちに先立たれていたら、何も嬉しくはなく、かえって侘びしい思いをするものであるが、彼女に限ってそれを超越して淡々としている。呆け知らずの冴えた頭で独り住まい。介護の必要のない、嘘のような百歳、奇跡の独居老人。自称山姥なる媼。
それを見守る額縁の娘・・・世に出せばどれだけの値打ちになるかわからないが、安心立命はここから得られるらしい。
男は思う、古の衣通姫の老後はどんなであったろうかと。今ここに見る山姥がそれではないだろうかと妄想したりする。身分が違うと言えばこれほど違うことはないが、与えられた運命はあまりにもよく似ている。言うまでもなく、自ら腹を痛めて生んだ子たちのことに悩んで生きねばならない親の宿命である。しかしながら、それがどうだって言うのだろう。世の中はもっと深刻な生死に関わる大問題を乗り越えて人が生きていることを思えば、取るに足りない些事ではある。千数百年前の子の不身持ちが親の責任として長く問われることなどないはずだ。今目の前にそれに似た親がいたとて、何の罪があろう。子は子、親は親であるし、そのこと自体誰にも迷惑かけていないことで不倫の汚名を着せられること自体おかしいのではあるまいか。その一方で、そのことを弁護して何になろう。
 軽兄妹の相姦を非難し二人を死に至らしめた穴穂(安康天皇)自身が同母姉弟間で結婚している。穴穂皇子はやがて皇位につくと、父の異母弟の弟の大草香皇子を殺して、その妃となっていた同母姉の長田大郎女を奪って皇后にするという挙に出ている。揚げ足を取ればきりがない。
 誰も非難しないのが、国生み神話のイザナキ・イザナミの神話である。これはあくまでも神話であり、人間の場合とは区別されている。二神は明らかに兄妹であり、そこでは兄妹の結婚が理想婚であるかのように語られている。それは神の世界の伝承だから人倫の立場からの批判はできない。
 神代から人代になると、兄妹婚はタブーとなる。沙本毘古・沙本毘売の説話では、この同母兄妹との間の子として生まれた本牟智和気王はものも言えないことで、禁忌を犯してはならないことを知ら
しめる。 
「ただそれだけのために?」
 今言う優性遺伝のために、兄妹愛が見境なき愛欲に陥ることを禁じることに疑いを差し挟むことはできない。ともあれ、人間生得の性愛(聖愛 )を、誰が否定し始めたのか。分からぬ。誰かに聞いてみたい。ここにいる身の回りの人間に聞いてみても、満足する答は得られないはずである。彼は神に向かってこう尋ねるのだった。
「男と女をお作りになったのは、互いに睦み合う喜びと合わせてその苦の代償を差し引き零になるようにお与えになったのではありますまいか」
 生き物の性、男と女が引かれあうというどうにもならない定めに生まれついているのは、善でも悪でもない。悪いのは男同士の権力闘争。それも血の繋がらない他人同士ならいざ知らず、弟が兄と争い、抹殺してはばからない、それこそが不倫であり、醜態なのである。そこには、ひとかけらの愛も歌もない、一幅の絵も美もない。愛と美に彩られて人の世は平安を保てる。
「世が世なら大王になるべき人なのに、この辺地に流されての侘び住まい、さぞや無念のことだったろうよ」  
「でもよ、軽太子は大和で自決して、軽大郎女だけが道後に流されたとも言われているじゃありませんか」
「お説ごもっともながら、ではここの墳墓は誰のものでしょう」
「・・・・・・」
「私は一途にここを皇子の陵墓と信じるからこの仕事をやってるわけで、参考地にすぎないけれど、疑わない方が心を込めてお世話できます」
「なるほど、そうでなきゃなるまいが」
「先に太子が伊予に来ていて、妹を迎えたと伝えるこんな歌まで残っているのですからね」
朗々と唱う男の声が新月の山にこだまする。

  ・・・隠国の 泊瀬の山の 大峰には 幡張り立て さ小峰には 幡張り立て 大峰にし 仲定めた  る 思ひ妻あはれ  槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻  あはれ・・・

  ・・・隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬を 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には鏡を掛け    真杙には 真玉を掛け 真玉なす 吾が思ふ妹 鏡なす 吾が思ふ妻 有りと言はばこそよ 家  にも行かめ 国をも偲はめ・・・

「読歌という節回しで歌って、二人はそこで一緒に死んだと古事記歌謡にあって、その死に場所がここかもしれないんですよ。それは大変なことなんです。その大事な古歌がここで作られたかもしれないと思うと、ぞくぞくっとしませんか」
「なんで人はそれを知らないのでしょう」
「それは知りません。いいじゃありませんか、大昔のことは。それより自分の宝物を自分だけのものとせず、世の人に見てもらったらどうでしょう」
「この絵を晒しものにせよと言うのですか」
「晒しものなどとは思わないで、皆さんに共感してもらうのですよ。それでこそお子さまの霊は浮かばれるはずです」
「思い出しますね、七八年前、そう言って訪ねてこられた人がいました。でも、私は断ったんです。これがなかったら私は生きていけません。これは息子が描いた娘です。余所の男が描いた余所の女じゃないんです。いいですか。これは私の命そのものですよと言うと、そこまで言われれば、無理にとは言いません。またいずれ:と言って帰りましたが、その後は音沙汰ありません」
「なるほど、よく分かりました。それは信州の方で開設している戦没画学生の無言館のことでしょうか」
「知りません。遠い所のことは知りません。私はこの川之江に生まれ、川之江に死んでいく女です」「女?」彼はつい口をすべらせてそう言ってしまいそうになっていた。ひるがえって考え直してみると、子のことをいつまでも思うのは、まぎれもなく腹を痛めた女にちがいなかった。
川之江の小さな港から出征していきましたよ。風雲急を告げる十九年の暮れのことです。言っても仕方のないことで、一度も言ったことはありませんが、生木を裂かれる思いとはあのことでした」
彼はもうこれ以上聞くのに堪えられなくなって立ち去ろうとして、もう一度よくよく十号の油絵に目を凝らした。そして、やっぱりこの絵はここにそっと置いておくのがいいような気にもなるのだった。究極の愛、そのエロスはそうむやみに人前に晒すものではないように思えてくるのだった。