我が鹿持雅澄

      土佐の万葉学者 鹿持雅澄        
                       その名にあやかりし不肖 剣持雅澄
                                                            (讃岐の似非万葉学者)  

  天保七年、鹿持城趾に鹿持座神社を造営した。先祖を敬うことにおいて人後に落ちない雅澄が、気がかりにし続けてきたものだった。雅澄の九代前の雅康が初めて土佐に移って来た。応仁の乱で京都を遁れてきた一条房家卿に従って来た飛鳥井雅康である。房家が中村城を構えたのに対し、城下の大方の地に鹿持城を賜った。城とは言うものの、やや大きな邸宅であった。人はここを飛鳥井城とも飛鳥井屋敷と呼んで畏敬した。数代前は京都で二度も勅撰集を選進した家柄なのである。
 雅澄はここに来る度に小祠さえないのを気にしていた。それをやっと自分の手で造営でき、その喜びを長い長い長歌にして奉納している。なぜこの年にしたかと言うと、雅康の三代後の右京進の二百五十年忌に当たっていたからである。
 雅澄の住む福井の里に移って来たのは、その孫安治の時で、柳村氏を名告った。雅澄の四代前で、雅澄の三十八歳まで柳村氏であった。文政十一年十二月から旧姓鹿持に復した。遠く遡れば、藤原  飛鳥井  鹿持  柳村  鹿持というようになる。藤原雅澄、飛鳥井雅澄、鹿持雅澄、柳村雅澄というように書き方はさまざまである。

    平成21年12月5日〔土〕   菊地寛記念館 サンクリスタル高松にて
  文芸講座 テーマ「万葉学者・鹿持雅澄について」
〔主旨〕 『万葉集古義』を著した江戸時代後期の国学者鹿持雅澄の業績と文学史的意義を講じる。☆その名に縁ある剣持雅澄が熱く語り、熱心に聴いていただいた。 


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