風の碑92飛行場開拓碑

 
     風の碑92飛行場開拓碑                         観音寺市出作町南自治会館隣
     海軍の寝耳に水なる飛行場立退き移転すぐまた元に
     特攻の練習機なる赤トンボこの飛行場で宙返りして
           観音寺海軍航空隊なる戦時遺跡七十年経ち歴史の彼方
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                              【碑念紀拓開磐常】 き書横右・書隷…字題               
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                 まことに読み取りにくい

  ★郷土史研究テーマ「軍用飛行場建設による強制立退き移転」の事実を知る。
一、取り上げる趣旨
  郷土史の正しい理解は市民の常識である。特に太平洋戦争最中、この地に軍用飛行場が造られ、住民は多くの犠牲を強いられた。この重い事実を無視することなく、正確に知っておかねばならない。
二、飛行場の位置・範囲
 (当時)三豊郡柞田村甲番地(上出・中出・下出)、常磐村出作南、紀伊村木之郷、豊田村母神山等が該当した。柞田川、軍川、加儀田川、母神山にはさまれた地域。
三、立退き移転の苦労
 350戸の立退き移転者の苦労が十分に伝え遺されていない。直接経験者の実態を調査し、今のうちに「聞き書き」をして記録として残しておく必要がある。 
四、作業者・動員
 三豊郡を中心とし、中学校・女学校生徒が、学校で授業をせず、飛行場設営に当り、飛行機部品を組み立てる勤労動員がなされた。更に外部からの集団が参加協力した事実などもあった。 
五、兵士・軍属、隊員の訓練
 初めは普通の海軍航空隊員とみなされていた。やがて、事の様子が分かってきて、沖縄等南太平洋に派遣される、十死零生の特攻隊員養成であった。実際は発進直前に終戦となった。
六、遺跡・遺物
 ●飛行場周囲の境界を示す西側に遺る「軍川」
 ●滑走路西端のコンクリート破片による大池堤防
 ●人の避難に利用した母神山周辺に遺る防空壕
 ●観音寺海軍航空隊飛行場に関する記録、記念碑

   〔柞田飛行場の遺跡〕
 今年は戦後七十年。柞田飛行場と呼んでいた観音寺海軍航空隊を偲ぶにもほとんど跡形がない。それでも、しいて探せばわずかにその痕跡は残っている。
 下出大池・出水の堤には滑走路に敷き詰めていたコンクリート破片が利用されている。中部中学横の軍川は飛行場の境を示すものである。下野橋詰中出に一里山遺跡があり、榎があり飛行場建設で伐採されたという案内標識が建っている。
母神山麓や元給食センター横には今なお当時の防空壕が残されている。出作南には飛行場跡地の開拓苦労話が記念碑に彫り込まれている。