人麻呂は石見のどこで死んだか
歌聖柿本人麻呂
この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたとも考えられる。
梅原猛著『水底の歌-柿本 人麿論』では、益田市高津沖の鴨島はっきりと制作年代がわかる人麻呂の最初の歌は、持統3年(689)4月に死んだ草壁皇子の殯の宮で詠んだ長歌首と反歌。そして、江ノ川の上流にある亀の地の津目山が昔は鴨山と呼ばれていたのだろうと解釈して、その場所を人麻呂の死亡地としたこともある。
また、『水底の歌-柿本人麻呂論』における大胆な論考で、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題と なった。