宇和島と芭蕉

愛媛県宇和島には、松尾芭蕉の句碑が三基ある。
芭蕉の母(桃地氏の娘)が宇和島の出身。
藤堂高虎宇和島七万石の大名となる。40歳にして初めて一国一城の主となる。
伊達家二代宗利築城の再現したものが現在残っている。
 藤堂良忠が藤堂高虎に仕えていた。芭蕉の最初の俳号は「桃青」は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した母の桃地姓に由来している。
 蕉門の俳人服部土芳の『芭蕉翁全伝』には「母ハ伊与国宇和島産桃地氏女」とあり、川口竹人の『芭蕉翁全伝」』にも「父は与左右衛門、母は伊予の国の産、いがの国名張に来たりて其家に嫁し、三男四女を生ず。嫡子半左右衛門命清、其次則翁也」とある。
 芭蕉が『野ざらし紀行』に「このかみの守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやや老たりと、しばらくなきて」と詠んだ句は
  手にとらば消えなんなみだぞあつき秋の霜