志のある市

  
    9月25日の市民大学講演「観音寺市の文学碑・紙碑」(資料)
 
山崎宗鑑句碑 八幡町興昌寺内一夜庵(昭和三二年)
   貸し夜着の袖をや霜に橋姫御
松尾芭蕉句碑  〃琴弾八幡宮鳥居南(天保一二年)
   早苗とる手もとやむかし志のぶ摺
小林一茶句碑  西本町専念寺境内(昭和一二年)
   元日やさらに旅宿とおもほへず
④松浦坐石句碑  八幡町総持院境内(昭和一四年)
   暁や水鶏の叩く夢の底
⑤石井朝太郎歌碑 琴弾山天狗山頂(昭和八年)
   動くとも見えぬ白帆の連なりて朝静かなり瀬戸の内海
⑥堀野林治歌碑  琴弾山頂象ヶ鼻(大正九年)
   燧灘波路の末の雲はれて伊予の高根に雪ふれるみゆ
金田一春彦歌碑 伊吹島真浦港小公園(平成一六年)
   緑濃き豊かな島やかかる地を故郷にもたば幸せならん
高橋藍川詩碑  琴弾山頂象ケ鼻(昭和五七年)
白帆如鷺入蒼溟 水愈碧兮松愈青 
通寶千年客無拾 砂浜歴々見銭型 
森川義信詩碑  粟井町本庄(昭和五七年) 
   非望のきはみ 非望のいのち…(十八行) 
⑩小野蒙古風句碑 流岡町加麻良神社(昭和六〇年)
人参が咲いて故郷の山河碧し
巌谷小波句碑 池之尻町心光院(  年)
   雲井まで届きし雁の叫びかな
芭蕉句碑 室本町室本新田公民館前(明治四〇年)
   旅人と己が名呼ばれんはつ時雨 
芭蕉黄葉塚句碑 大野原町萩原高尾観音堂(  年)
   たふとかる涙やそめて散る黄葉
芭蕉野松塚句碑 大野原町中姫弁財天前(  年)
   寂しさやすぐに野松の枝の形
⑮平田風石句碑 大野原町軍人墓地西(明治二九年)
   白雲の下に雲おくしぐれかな
⑯南浩二句碑 大野原町萩の丘公園(昭和五十八年)
   村静か青田に雨の降るばかり
⑰平岡久忠歌碑 大野原町有木阿弥陀堂(昭和五十二年)
有盛の裔の血を引く故郷を我は誇りて六十年経ぬ
大平正芳辞世句碑 豊浜町八幡神社(昭五十六年)
   得病更知旧友情 明常思長夜之愁
大平正芳墓碑銘 伊藤正義 豊浜町墓地公園( 年)
   君は永遠の今に生き 現職総理として死す
理想を求めて倦まず 斃れて後已まざりき 
⑳合田俊二歌碑  豊浜町墓地公園( 年) 
うたかたの世に立つ己が後背は
堅き十字のあとと見えけむ
 
【紙碑】世に知られていない物事や、世に埋もれた人の生涯・業績などを書いた文章。(大辞林) 
用例①『詩人の紙碑』長田弘②日本現代紙碑文学館(海津市)
  ③「紙の碑に泪を」講談社ノベルス④「戦場への紙碑」戸川幸夫
本来「碑」は「石文(石に刻まれた文)」であって、「紙碑(紙に書かれた石文)」は矛盾する用語とも言える。
「紙碑」とは、実在的なものではなく、文芸的表現として用いられているとみるべきである。
一般に通用する「文学碑」(句碑・歌碑・詩碑・詞碑等)とは違って、「紙碑」とは「蔭で存在を主張する文芸像」と言える。
観音寺市粟井町本庄出身。早稲田大学中退。ビルマミートキーナにて戦病死。親友鮎川信夫らと詩誌「荒地」創刊、鮎川の代表作で森川を詠んだ「死んだ男」は高校の教科書に採られた。死後鮎川信夫によって『森川義信詩集』が出版された。 大正七年生~昭和一七年没 享年二五歳
 
  勾  配      
                  森川義信
 非望のきはみ
  非望のいのち
  はげしく一つのものに向かって
  誰がこの階段をおりていったのか
  時空をこえて屹立する地平をのぞんで
  そこに立てば
  かきむしるように悲風はつんざき
  季節はすでに終わりであった
  たかだかと欲望の精神に
  はたして時は
  噴水や花を象眼
  光彩の地平をもちあげたか
  清純なものばかりを打ちくだいて
  なにゆゑにここまで来たのか
  だがみよ
  きびしく勾配に根をささへ
  ふとした流れの凹みから雑草のかげから
  いくつもの道ははじまってゐるのだ
 
 わずか十八行の短詩であるが、ままならぬ青春の心の傾斜がはるかな地平と交叉して、「非望のきはみ」にはじまる道を見出す痛ましさが感動を呼ぶ。昭和十四年(二十二歳)の作。この詩は観音寺市粟井町本庄の生家前に詩碑として刻まれている。
 
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