バイク人生の終焉

   バイク人生の終焉
 昭和39年11月10日、小型二輪の免許証を取得してからほぼ半世紀の間、バイクだけに乗って生活してきた。その頃、いち早く四輪の免許を取る人もかなりあったが、自分は苦労性だし、貧乏だったので、二輪で十分だった。
 その後、しだいにマイカーの時代になって、世の中の流れに負けて四輪の免許を取る「魔が射した」こともある。それでも、自動車学校に行くのがめんどうくさいのと、経済的ではない四輪の誘惑に打ち克った。クルマは確かに便利である。だが、不経済。人は四輪のクルマに乗っても、自分は半グルマでいいと思っていた。
 一人の人間の移動に数人乗れる四輪を使用するのは不経済である。環境汚染に荷担するのは罪悪である。そのような極端な自論も持っていたし、車に乗っている人は「悪魔」だともみなし、車には人間らしいヒトは乗っていないともみなしていた。「昨日路で会ったのに、知らん顔してただろう」と責める知人もいた。「バイクは危ないから、車の運転席まで見てなくてごめん」と詫びを言ってすませた。
 雨風の時はつらかった。ヘルメットをかぶり、雨合羽を着ても、隙間から雨が入って冬は冷たかった。子育てをしている時は、子守りさんところへ幼子を預けるのに、荷台の篭に乗せて雨合羽を着せて可哀そうなことをした。多くの人はぬくぬくと暖房の効いた車に乗せて移動していたのにと悔やまれる。そのことを今も子供たちは恨んでいるかどうか知らない。
 四輪と違って小回りがきく利点はあった。ラッシュで数珠のように並んで待っている時、横をするすると追い越し先に到着できた。前後にはさまれた四輪は、にっちもさっちもゆかないが、二輪はその点融通がきく。
 駐車場の心配もない。四輪は駐車場を見つけるのにずいぶん苦労するようだが、それは必要以上に大きいクルマに乗っているのだから、当たり前である。料金を払うのも当たり前である。バイクで駐車料を払ったことは一度もない。クルマではないのである。自動二輪。しかも自分のは小型なので、ガソリン代も少なくてすむ。人呼んで「けちんぼ」
「後塵を拝する」と言う言葉があるが、左端をバイクで走っていると、四輪はすいすいと追い抜いていったものだ。「自分の人生は人のクルマに追い抜かれた人生」と言える。追い抜かれると、追い抜き返す若者ドライバーもいるようだが、自分は「お先にどうぞ」と人に道を譲る人生」だったように思う。
 免許証の更新はしない。自動的に明日から運転できなくなる。バイク人生はこれで終わったが、生身の人生は後少し残っているようだ。「お先にどうぞ」と人に道を譲る余生を送ることになろう。ゴーイングマイウェイ…爽やかに自転車でゆく故里を…
 
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      バイクは安く買われてゆけり   9月2日