回想記
今もなほ「ふるさと」の川そのままに残りてこころ満たさるるなり 古義軒
共に友 幼友達 竹馬の友 誰もこの懐かしい響きを愛する 一方 ゆめ思い出したくない友と言えない友もある 怨憎会苦とまではいかない 眼中にない友もある 一生親友と付合い 助け助けられたら しあわせ 現実は そうはいかないで 先立たれる 不倖せ 三人の親友に…
コスモスは宇宙に光を発する源泉 おのがじし命の限り咲ききっている
日記を書き出して43年目になる。一日も忘れたことはない。また、一行も一枠も空白にしたことはない。全て詰めて書いている。その日にあったことをありのまま淡々と書き留めて、感想はほとんど書かない。人様に読んでもらえるような「日記文学」というような…
ネット新連句「坪内稔典・(がんばるわ)」 メンバー 小童・宣長・不遜 (一)正調 一 がんばるわなんて言うなよ草の花 坪内稔典 秋 二 甘納豆食べ猫河馬肥ゆる 不遜 秋 三 船団を漕ぎ出さんとし月も出て 宣長 秋月 四 頑張り過ぎた青八咫烏 小童 雑 五 獅子…
西讃、柞田川河原沿いの黒渕土葬墓所 平成になっても土葬続けたるその習俗に親友の墓 雅澄 九十まで生きるよと言ったのにその親友は五十で逝きぬ 〃
日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争に多くの村人が 愛する家族と別れて旅立って征った。
旧満州中国東北地区で父親を先の大戦で喪った遺児たちの慰霊訪問でした。
六十年夢幻の如く過ぎ今老残の姿を曝す
剣持雅澄「回想の風景」 ~戦中戦後の思い出を描く~ 過去の思い出は文章で書くのが普通であるが、どうしても絵でないと表せないものもある。そうしたものを筆に任せて描いてみた。写生ではないし、記憶があいまいで、人に鑑賞してもらえる作品ではない。た…
三豊市詫間町民俗資料館の品々 主として農家で使っていた生活用具の数々
機械化の現代からはかけ離れ 一つひとつに苦労が滲む
高黍 小黍 粟 砂糖黍
足踏み脱穀 供出する米俵にちょこんと坊やが乗せられて 金毘羅名物 海上安全「流し樽」 砧打つ女 灯籠流し 昭和21年12月 南海大地震の思い出
その昔夕方来れば誘蛾灯水田に灯りし幻想の景 誘蛾灯は、昔田んぼや林に囲まれた農家が使っていた。 自分も子供の時、その灯芯に点灯する当番で回った思い出がある。今も幻想的な風景を忘れられない。 現在の誘蛾灯は、青い光の横に電気を通した鉄線が張っ…
お手植えの田植を忘れいたりけり 今は易々機械で植える 出征の兵士を見送り手を挙げる 田植えの手を止め「バンザ~イ」〃
座敷の畳を上げて、箙で 蚕を飼って副業とした。 自分の家で俵を編み、収穫した米を詰めて供出した。 男は巻脚絆・草鞋、女は白脚絆・草履の履物が普通だった。 盥で洗濯板を使い、手もみで洗濯をした。 夏はご飯が腐りやすく、いか器に入れて吊るした。 ハ…
終戦一カ月後、昭和20年9月17日夜、四国も枕崎台風が吹き荒れた。 怖い一夜が明けて、外を見ると、稲穂が真っ白になっていた。これで今年の稲の出来は絶望的であることを大人たちに教えられ、小学生であった自分も辛くなった。 皆で田の草取りをして丹精込め…
末っ子の復員して帰った時に明けていた戸口を開けて遂に帰らず
戦争が終っても、戦死者の村葬が続いた。昭和21年5月の末父は満洲から遺骨となって帰ってきた。当時小学3年生だった僕は喪主として祭壇へ焼香に上った。他の人たちは皆黒い喪服姿の大人だった。子供の僕だけが母の手縫いの麻布の白服がひときわ目立っていた…
薦を編む 藁を繰る 縄を綯う 目籠で運ぶ 唐竿で脱穀 籾を乾す
説明がなくても分かるような絵でなければなりませんのに…
藁葺きの粗末な家に育ちたり されど優しき母と姉あり 埴生の宿も我が宿 戦時中の苦労も今は夢のごとし 埴生の宿 1 埴生の宿も 我が宿 玉の装い 羨まじ のどかなりや 春の空 花はあるじ 鳥は友 おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや 2 書読む窓も 我が窓 瑠璃…
●人生は一行のボードレーヌに如かないと詩作に没頭したが若くして異類となった。 ●親はなくても子は育った。動物のように自活、自らの内なる世界に王国を築いた。 ●通勤通学の便利のため早くに免許証を取得したのだが交通事故死してしまった。 ●焼身自殺をし…
たまには母校花園へ すみれのはなのようなあなたがいた日はもうかえらない
白爪草に寄せて 小豆島の海辺の草原に シロツメグサが咲いている そのなにげない風情を歌い 贈ってくれたね あのときは ほのぼのとした気持ちになったの 昨日のように覚えているよ ほんとうは その花の名前 知らなかったんだけど 直感でそれを知らされたのか…