母校はあるが、父校はないのか?

 これまで「母校」と言って「父校」と言わないのを、何も疑問に思わなかった。
今日、母校が壊されるのを目の当たりにして、ここはもう母校ではない、という気がしたので、一文をしたためる。
 母校がなくなって、次に建てられるものは、勝手に「父校」かもしれぬというひらめきが湧き起こった。
 母校とは、自分の学んだ学校の校舎がそれを代表する。お世話になった先生方がそのままいれば、いっそう母校が実感されるが、絶対条件ではない。思い出の残る同窓生はみな卒業したのだから、そこにいないからとて母校でないとは言えない。やはり、人ではなく、入れ物としての「校舎(まなびや)」である。それが、耐震構造になっていないからとて、最近は次から次へと惜しげもなく、校舎が取り壊されている。ほとんどどこもかしこもである。昔の木造ならいざしらず、鉄筋コンクリートでも寿命があるという。信じられないほど短い。人の命より短いと言う。安全第一の教育の場所は特に留意するのだろうが、素人考えでは少し早すぎる気がする。
 本論にもどろう。思い出深い懐かしさ・優しさの象徴母校。それが新校舎に改築されても、母校は母校だと言って平気な人はそれでいい。
 少しひねくれた見方、考え方によれば、あえてそれは「父校」とでも言っておこう。
人を説得する理由付けはできない。ただなんとなくそう思い付いただけだ。だれも共感してくれる人はいないだろう。
 
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