放哉を頼った井上一二(小豆島の俳人)

土庄町渕崎井上文八郎(俳号、一二)、明治18年1月20日生れ。妹シン、その娘二子、その娘佳津子(昭和16年生)。当時渕崎村。醤油業を営み、裕福。放哉の面倒をみることになる。ただ、初めのうちは、感情的にぎくしゃくしたところがあったらしい。
  吉村昭『海も暮れきる』では、一二のことが終始語られている。
 
 無礼な奴だ、放哉は、自分の顔から血の色がひくのを意識しながらつぶやいた。「層雲」の指導的俳人として自由律俳句の秀句を数多く発表し、俳壇の注目を浴びている自分に比べて、一二は、地方在住の同人の一人に過ぎない。学問的知識も自分の方がはるかにすぐれ、一二から尊敬されるべき人間なのだ。そのような自分に、棺桶かつぎをし墓掘りをさせて葬家から飯をもらえとは何事か、とかれは思った。(106p)
 一二は母の料理した食物を毎日とどけさせ、…(192p)
 その日の夕方、一二の家から炭と漬物がとどけられた。(227p)
 一二の顔には、放哉の余りに激しい体の衰えに対する驚きの表情が露に浮かび出ていた。(289p)
 一二は、こわばった表情で見舞いの言葉を口にし、村のことと家業で忙しく句作する時間的余裕がないことを言葉すくなに話した。(290p)
 
  このように、作中では放哉の経済的に援助、めんどうをよくみていたことが分かる。