義経奉納の木の鳥居
琴弾八幡宮の中ほどより上の石段を覆うように建てられている。
脚部を石で修理したのは宝暦11(1761)年3月で、創建後572年経過していた。
【源平屋島合戦の由来】
源平屋島合戦は『吾妻鏡』によると寿永四年(1185)二月十九日から三日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山がこの合戦で源氏の勝利にゆかりの地であることを知る人は少ない。
屋島の戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将「能登守教経」は、起死回生の作戦として伊予大洲城主「田口左衛門教能」が伊予路の源氏勢を平定したあと一千騎を率い連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢を挟み討ちにする事を考えていた。
この作戦は順調に進んだかに見えたが、智将「義経」は夢の中に見えた「教経」の幻影からこの作戦を見破っていた。
屋島の源氏勢二百五十騎にとって敵一千騎の援軍では勝ち目の無い事を知った「義経」は、腹心「伊勢三郎義盛」に命じ、田口勢が屋島に到着する前に説得によって喰いとめることをはかった。
源氏滅亡を双肩にした「義盛」は、手勢十六騎と共に、万一ときは討ち死にを覚悟で鎧の下に白装束を着こんで浜辺伝いに西にとんだ。
義盛が田口勢と出合ったのがこの琴弾山だった。二十騎足らずの敵に気を許した大将「田口左衛門教能」は、義盛の申し入れに応じ、太刀を外して十王堂の一隅で相対した。義盛の言葉は、屋島の合戦で源氏に勝運が微笑み平家方の多くは討ち死にするか捕らわれの身となった事を。その中で教能の父「阿部民部重能」も武運を察して降参したという事だった。
義盛の命がけの熱弁に惑わされた教能は『父捕わる』に心は大きく動揺した。『一門悉く打ち破られてはこの上戦っても無益な事、屋島の戦いに間に合わなかったのが武運のつき・・・』と田口千騎はこの地で源氏の軍門に降った。
間もなく敗れた平家の残党は屋島から海路、新三位中納言「知盛」の待つ長門彦島(下関市)に向かって落ちて行った。時に二十一日の夕暮れだったという。
琴弾八幡宮に今も残っている「木の鳥居」は屋島戦勝の印として其の後源氏の側近が義経に代わって奉納したとも伝えられる。 観音寺市
義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進した。
源平屋島合戦は『吾妻鏡』によると寿永四年(1185)二月十九日から三日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山がこの合戦で源氏の勝利にゆかりの地であることを知る人は少ない。
屋島の戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将「能登守教経」は、起死回生の作戦として伊予大洲城主「田口左衛門教能」が伊予路の源氏勢を平定したあと一千騎を率い連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢を挟み討ちにする事を考えていた。
この作戦は順調に進んだかに見えたが、智将「義経」は夢の中に見えた「教経」の幻影からこの作戦を見破っていた。
屋島の源氏勢二百五十騎にとって敵一千騎の援軍では勝ち目の無い事を知った「義経」は、腹心「伊勢三郎義盛」に命じ、田口勢が屋島に到着する前に説得によって喰いとめることをはかった。
源氏滅亡を双肩にした「義盛」は、手勢十六騎と共に、万一ときは討ち死にを覚悟で鎧の下に白装束を着こんで浜辺伝いに西にとんだ。
義盛が田口勢と出合ったのがこの琴弾山だった。二十騎足らずの敵に気を許した大将「田口左衛門教能」は、義盛の申し入れに応じ、太刀を外して十王堂の一隅で相対した。義盛の言葉は、屋島の合戦で源氏に勝運が微笑み平家方の多くは討ち死にするか捕らわれの身となった事を。その中で教能の父「阿部民部重能」も武運を察して降参したという事だった。
義盛の命がけの熱弁に惑わされた教能は『父捕わる』に心は大きく動揺した。『一門悉く打ち破られてはこの上戦っても無益な事、屋島の戦いに間に合わなかったのが武運のつき・・・』と田口千騎はこの地で源氏の軍門に降った。
間もなく敗れた平家の残党は屋島から海路、新三位中納言「知盛」の待つ長門彦島(下関市)に向かって落ちて行った。時に二十一日の夕暮れだったという。
琴弾八幡宮に今も残っている「木の鳥居」は屋島戦勝の印として其の後源氏の側近が義経に代わって奉納したとも伝えられる。 観音寺市
義経は屋島の戦いの後に平家追討を祈願して馬と鳥居を奉納し、頼朝は1千貫文の土地を寄進した。