戦没詩人 森川義信の墓碑・詩碑
徳行院釈義道居士 昭和十七年八月十三日没 行年二十五歳
森川義信生家 今は誰も住んでいない空家
日本の名詩「勾配」 森川義信の代表作
妹今滝康子院長先生の今滝医院がすぐ近くにある。
死んだ男
「死んだ男」とは鮎川信夫の代表作で、戦後詩の記念碑的作品である。
わが母校の前身三豊中学出身の森川義信を念頭において、詩中で「Mよ」と三回呼びかけ、戦病死したこの親友を哀惜している。自らを「遺言執行人」と比喩的に表現し、未来への展望を持てずに青春時代を葬ったことを語り続けようとしている。
大岡信が「戦後詩人の出発」で特筆するまでもなく、この詩は「戦後現代詩の出発を告知した詩として、以後しばしば戦後詩史の船首像とされる詩」(『日本近代文学大事典』)である。
筑摩書房の高等学校用『現代文』教科書に載せられている。先輩をこの教科書で学習し、教えることに誇りを感じている。教科書準拠『演習国語Ⅱ』では、森川義信の代表作「勾配」が載せられている。
勾 配
非望のきはみ
非望のいのち
はげしく一つのものに向かって
誰がこの階段をおりていったのか
時空をこえて屹立する地平をのぞんで
そこに立てば
かきむしるように悲風はつんざき
季節はすでに終わりであった
たかだかと欲望の精神に
はたして時は
噴水や花を象眼し
光彩の地平をもちあげたか
清純なものばかりを打ちくだいて
なにゆゑにここまで来たのか
だがみよ
きびしく勾配に根をささへ
ふとした流れの凹みから雑草のかげから
いくつもの道ははじまってゐるのだ
わずか十八行の短詩であるが、ままならぬ青春の心の傾斜がはるかな地平と交叉して、「非望のきはみ」にはじまる道を見出す痛ましさが感動を呼ぶ。昭和十四年(二十二歳)の作。三年後の昭和十七年八月十三日(二十五歳)ビルマのミートキーナで戦病死する。この詩は観音寺市粟井町本庄の生家前に詩碑として刻まれている。
鮎川信夫編『増補森川義信詩集』(平成三年一月十日国文社発行)は唯一の遺稿詩集で、現代詩の原点を築いた森川義信の決定版詩集である。また、鮎川信夫著『失われた街』(昭和五十七年十二月十日思潮社発行)は親友による森川義信伝として貴重である。鮎川は森川の戦病死を知ってほどなく入営、昭和十八年スマトラに従軍、翌年病気で内地送還、生き残る。この運命の違いが、鮎川をして森川に対する負い目となる。
「死んだ男」を作ることによって親友を蘇らせ、自らの負い目から解放されることになる。すでに鮎川信夫亡く(昭和六十一年十月十七日没、六十六歳)、しだいに忘れ去られようとしているが、この二人の詩人の友情は語り継がれねばならないだろう。
義信の妹今滝康子小児科医院院長は言う。「鮎川信夫さんあっての森川義信です」と。逆に言えば「鮎川信夫がいなければ詩人森川義信はない」ということだろう。
田舎から出てみずみずしい感性を持つ森川に鮎川は都会育ちの自分にはないものを見出し、親密につながるようになったのにちがいない。
昭和十四年三月頃、早稲田構内で二人並んだ写真は、いかにも心の通じ合う親友という感がある。神奈川近代文学館には、この写真他詩稿が保存されている。福山在住の兄正蔵氏は弟のものが大切に保存されているのを目のあたりにして、大変感動されたと言われた。増補版詩集を出されたのも正蔵氏である。今生家に肉親は住んでいないが、四兄弟三姉妹すべてすばらしい方がたで、健在であられるのは兄正蔵氏、妹康子さんのお二人である。
徳行院釈義道居士 森川家霊標に刻まれた義信の戒名である。粟井町には軍人墓地はなく、粟井神社境内に殉国碑があり、戦死者が列記されているにすぎない。一冊の詩集、一基の詩碑、これが詩人義信の記念碑、個人の墓標である。「荒地」グループの人々は今なお森川義信を偲ぶ。その時代を証言するのは大川中学出身の衣更着信(本名・鎌田進)ぐらいになった。
森川義信の詩をめぐって「現代詩における生命頌歌」「戦争の影とともに成長し、ついにはその雲の上に消え去る運命を確実に予測した若者の、冷たく暗いけれども、痛いほど美しい生命の讃歌」と見る。義信の「衢にて」の詩の中から引用すれば
ものいはず濡れた肩や
失はれたいのちの群をこえ
けんめいに
あふれる時間をたどりたかった
こみあげる背をふせ
はげしく若さをうちくだいて
未完の忘却のなかから
なほ
何かを信じようとしてゐた
などの詩句に、絶望の涯から見出した希望を感じずにはいられない。前出「勾配」の詩にも、「非望」を重ねながら最後には生きゆく「いくつもの道」を見出そうとしている。
再び鮎川と森川の友情にもどろう。この二人の友情は知る人ぞ知るである。同列と言うよりも鮎川の森川への敬愛の念が強い。特に「勾配」の衝撃は大きく、叙情の衣装を脱いで思想性に富んだこの詩を高く評価する。「傾斜のイメージは、私たちの位置を決定する座標軸のように感じられた」と言う。現代詩はこのような技法でゆかねばならないと思ったにちがいない。
「私たちのための詩を発見したという喜びで心が高鳴った」のである。その森川義信の遺言の中に「一貫して変わらぬ交誼を感謝します。この気持は死後となっても変らないだらうと思います」と書かれていることにこだわりを持つ鮎川であった。文末の推量表現が気になるほど二人は固く結ばれていたかったのである。「それにしても、こんなに丁寧に挨拶して死んでしまうなんて」と鮎川はその時口惜し涙をこぼした。
その涙を吹き払って、暗い青春時代を余儀なくされた生の不条理を歌い、人物伝を語り、手向けとする。森川義信は鮎川信夫によって生き返り、鮎川信夫は森川義信によって生かされたと言える。このような先輩詩人を持ち、その母校でその詩を教えられることの幸せを感じている。
「死んだ男」とは鮎川信夫の代表作で、戦後詩の記念碑的作品である。
わが母校の前身三豊中学出身の森川義信を念頭において、詩中で「Mよ」と三回呼びかけ、戦病死したこの親友を哀惜している。自らを「遺言執行人」と比喩的に表現し、未来への展望を持てずに青春時代を葬ったことを語り続けようとしている。
大岡信が「戦後詩人の出発」で特筆するまでもなく、この詩は「戦後現代詩の出発を告知した詩として、以後しばしば戦後詩史の船首像とされる詩」(『日本近代文学大事典』)である。
筑摩書房の高等学校用『現代文』教科書に載せられている。先輩をこの教科書で学習し、教えることに誇りを感じている。教科書準拠『演習国語Ⅱ』では、森川義信の代表作「勾配」が載せられている。
勾 配
非望のきはみ
非望のいのち
はげしく一つのものに向かって
誰がこの階段をおりていったのか
時空をこえて屹立する地平をのぞんで
そこに立てば
かきむしるように悲風はつんざき
季節はすでに終わりであった
たかだかと欲望の精神に
はたして時は
噴水や花を象眼し
光彩の地平をもちあげたか
清純なものばかりを打ちくだいて
なにゆゑにここまで来たのか
だがみよ
きびしく勾配に根をささへ
ふとした流れの凹みから雑草のかげから
いくつもの道ははじまってゐるのだ
わずか十八行の短詩であるが、ままならぬ青春の心の傾斜がはるかな地平と交叉して、「非望のきはみ」にはじまる道を見出す痛ましさが感動を呼ぶ。昭和十四年(二十二歳)の作。三年後の昭和十七年八月十三日(二十五歳)ビルマのミートキーナで戦病死する。この詩は観音寺市粟井町本庄の生家前に詩碑として刻まれている。
鮎川信夫編『増補森川義信詩集』(平成三年一月十日国文社発行)は唯一の遺稿詩集で、現代詩の原点を築いた森川義信の決定版詩集である。また、鮎川信夫著『失われた街』(昭和五十七年十二月十日思潮社発行)は親友による森川義信伝として貴重である。鮎川は森川の戦病死を知ってほどなく入営、昭和十八年スマトラに従軍、翌年病気で内地送還、生き残る。この運命の違いが、鮎川をして森川に対する負い目となる。
「死んだ男」を作ることによって親友を蘇らせ、自らの負い目から解放されることになる。すでに鮎川信夫亡く(昭和六十一年十月十七日没、六十六歳)、しだいに忘れ去られようとしているが、この二人の詩人の友情は語り継がれねばならないだろう。
義信の妹今滝康子小児科医院院長は言う。「鮎川信夫さんあっての森川義信です」と。逆に言えば「鮎川信夫がいなければ詩人森川義信はない」ということだろう。
田舎から出てみずみずしい感性を持つ森川に鮎川は都会育ちの自分にはないものを見出し、親密につながるようになったのにちがいない。
昭和十四年三月頃、早稲田構内で二人並んだ写真は、いかにも心の通じ合う親友という感がある。神奈川近代文学館には、この写真他詩稿が保存されている。福山在住の兄正蔵氏は弟のものが大切に保存されているのを目のあたりにして、大変感動されたと言われた。増補版詩集を出されたのも正蔵氏である。今生家に肉親は住んでいないが、四兄弟三姉妹すべてすばらしい方がたで、健在であられるのは兄正蔵氏、妹康子さんのお二人である。
徳行院釈義道居士 森川家霊標に刻まれた義信の戒名である。粟井町には軍人墓地はなく、粟井神社境内に殉国碑があり、戦死者が列記されているにすぎない。一冊の詩集、一基の詩碑、これが詩人義信の記念碑、個人の墓標である。「荒地」グループの人々は今なお森川義信を偲ぶ。その時代を証言するのは大川中学出身の衣更着信(本名・鎌田進)ぐらいになった。
森川義信の詩をめぐって「現代詩における生命頌歌」「戦争の影とともに成長し、ついにはその雲の上に消え去る運命を確実に予測した若者の、冷たく暗いけれども、痛いほど美しい生命の讃歌」と見る。義信の「衢にて」の詩の中から引用すれば
ものいはず濡れた肩や
失はれたいのちの群をこえ
けんめいに
あふれる時間をたどりたかった
こみあげる背をふせ
はげしく若さをうちくだいて
未完の忘却のなかから
なほ
何かを信じようとしてゐた
などの詩句に、絶望の涯から見出した希望を感じずにはいられない。前出「勾配」の詩にも、「非望」を重ねながら最後には生きゆく「いくつもの道」を見出そうとしている。
再び鮎川と森川の友情にもどろう。この二人の友情は知る人ぞ知るである。同列と言うよりも鮎川の森川への敬愛の念が強い。特に「勾配」の衝撃は大きく、叙情の衣装を脱いで思想性に富んだこの詩を高く評価する。「傾斜のイメージは、私たちの位置を決定する座標軸のように感じられた」と言う。現代詩はこのような技法でゆかねばならないと思ったにちがいない。
「私たちのための詩を発見したという喜びで心が高鳴った」のである。その森川義信の遺言の中に「一貫して変わらぬ交誼を感謝します。この気持は死後となっても変らないだらうと思います」と書かれていることにこだわりを持つ鮎川であった。文末の推量表現が気になるほど二人は固く結ばれていたかったのである。「それにしても、こんなに丁寧に挨拶して死んでしまうなんて」と鮎川はその時口惜し涙をこぼした。
その涙を吹き払って、暗い青春時代を余儀なくされた生の不条理を歌い、人物伝を語り、手向けとする。森川義信は鮎川信夫によって生き返り、鮎川信夫は森川義信によって生かされたと言える。このような先輩詩人を持ち、その母校でその詩を教えられることの幸せを感じている。