フロンティア精神

 
 【開拓者魂(拓魂)の是非・評価】
 拓 魂
五族協和」「共存共栄」「王道楽土」を名のもとに大陸進出、満洲建国を国策として突進した日本。
日本の生命線として満洲は第二の日本、新天地として満洲内蒙古に入植した日本人移民の総称満蒙開拓団。踊らされ盲従した国民が悪かったのか、唆した国家・為政者が悪かったのか。はたまたそうせざるをえなかった国運・国勢に帰せしめてしまうのか。その判断は、人それぞれの賢明な考察に任せるしかない。
 ただ、フロンティア精神と置き換えることもできる「拓魂」は絶対的評価が得られるはずのものである。退嬰的閉鎖にとどまることが国家発展にプラスするものではないことをことを考えれは、評価は自ずから決まってくる。ただ根底に他国を侵すことになるのではないかという配慮、「侵略」にはならないという明確な認識のないままの「勇躍邁進」に酔ってしまったこと。「暴走」「猪突猛進」を「進取の気性」として受け取った過ちがそこにあった。後になってやっと気づく愚かさ。為政者にも大方の国民にもその判断は取り返しのつかないほど禍根と汚点を残すことになる。
    
[参考拙文] 満州開拓は「聖業」であり、「鍬の戦士」の美名のもとに送出された満蒙開拓青少年義勇軍。昭和十三年第一次から昭和二十年第八次まで、全国で八六、五三〇名が渡満している。 
 初めは他県との合成部隊であったが、香川県単独の郷土編成中隊ができたのは、昭和十五年の第三次横山中隊であった。第四次が昭和十六年の浅野中隊、そして第五次が昭和十七年の野口中隊。私の父親野口勇四十歳の率いる香川県送出義勇軍だった。当時私は四歳で、ほのかな記憶しかない。高松桟橋まで見送りに行ったのは覚えている。
 昭和四十八年発行の野口中隊史『鍬の戦士』(印美書房刊)にはその足跡を調査、概略をまとめている。私自身満州に一緒に行っておれば、生きて帰れたか、残留孤児になっていたかしれない。
 さて、満州からの引き揚げの記録は多い。今回の特別番組、義勇軍の軌跡。大筋は苦労しながら生還した数人の証言が中心であった。死地を遁れ、運よく帰れた人の体験談を基にしている。虚言を言ってはいないだろうが、差し障りのあるようなことは言っていないように思われる。自分に不都合なこと、不名誉なことは差し控えることだって個人の自由で、誰も咎めだてはできまい。
 それは致し方のないことで、それはそれでいいのだが、勝手なことを言わせてもらえば、死者の言葉が再現できないかということである。見殺しにされ、置き去りにされた「今際のことば」が伝わらぬものか。「死者をして語らしめよ」これが前々から私の持論で、ばかばかしいことなので公言したことはない。きわどい話は聞き書きしているが、問い詰めていない。
「墓場へ持って行け」と人に言われ、自分もそのつもりでいる人にどうして吐かせられようか。公に出版された本には、その辺りの限界があるし、生の声とか、裏面史に歴史の真相は含まれているのだろう。かえってドキュメントではなく、小説というフィクションを借りて真実は秘めて語られているかもしれない。その辺りの落穂拾いをしなければ歴史の真実はこぼれ落ちたままになる。
 こんなことを語ってくれた隊員がいた。
終戦直後、隣の開拓団から十人ほど逃げてきた。女子供で逃げることはできない。集団自決をするという意志が固い。家の中に閉じ込もり外から油をかけて燃やす。その手助けをしたという。思いとどまらせることができなかったことを今も悔いるとも言う。
 父は終戦後内地へ引き揚げを待っていた昭和二十一年三月十二に奉天(瀋陽)で病死した。引き揚げの始まる五月を待ちかねて二十人ほどの隊員も病死している。誰にも看病されずに流浪の民として客死したのである。私はいつも思う。父は死んでよかったと。生きて帰ったら、死んだ隊員の親たちに顔向けできないはずだから。
 昔中国において楚王項羽が郷里に子弟を帰し得ず、自刃したように、父は死んで然るべきであったと思う。
 今回の特集でも、教師が生徒を満州に行くことを勧めたことを強調していた。教師は国家の命令で動いていて、「国策」だからしかたなかったとも言える。しかし、心ある教師は志願することを勧めはしなかったのではないか。とすれば、その片棒を担いだ父にも責任がある。二十名の若者の命をあたら早く散らせた責任がある。私は父の責任を果たすために、奉天に慰霊に旅立った。ちょうど三月頃がその死んだ時期だったので、平成八年三月中国東北地方(旧満州)に一人旅立った。中国語は知らなくとも無事行って帰ることはできる。かつての侵略者の子だなどとは言いはしない。無言の慰霊の行(ぎょう)であった。
 これまで小説無帽にも「父の風景」「孤燕(はぐれつばめ)」「亡父との対話(ダイアローグ)」「父の大地」「帰燕」と題して小説(らしきもの)を書いてきた。この五編の小説集は『父の帰還』として二○○三年私家版として発行している。また、戦後六十年(二○○五年)には随筆無帽に発表した戦争をテーマにした随筆二十六編をまとめた文庫本型私家版もある。いずれも三十部程度の限定出版で注目されることはないままである。
 最後に、少し結論的に申せば、戦後七十年(五年後)には戦後は完全に封印されると思うので、自分の戦後の総決算を結集したいと念じている。
我が余命は五年と見られる。この限られた時間を大切に、戦争体験者の伏せてきた真実の声に耳を傾けたいし、虚しく逝ってまだ聞いていない鬼哭を聞き取っておきたいと念じている。ライフワークがいくつもあって困るが、一つにしぼれば「日本の総決算・戦後七十年」となる。 (「随筆無帽」564号草稿)