平有盛の讃岐伝説

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 【平有盛】 平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄弟の行盛と三人が手を取り合い碇を背にして、海中に身を投じた。享年22歳。
 観音寺市大野原町の五郷ダムの中ほどに架かる「有盛橋」を東に500メートルほど行くと、有木という集落がある。ここには壇ノ浦で亡くなったとされている平有盛が落ち延びたという伝承が残っている。有盛は清盛の息子・重盛の四男で、小松少将と呼ばれた武将。有盛はしばらく有木に留まっていたが、愛用の小烏丸という太刀をこの地に残し、もっと奥深い祖谷へ移り住んだと言われる。
 今でも有木には有盛が住んでいたという「えかた」(「やかた」の音転)が残る。また、宝屋敷、上屋敷中屋敷下屋敷、烏帽子屋敷、神子谷(巫女谷)、王塚、鞍掛松、高旗など平家にまつわる地名や、平岡、平口、平野という平家にちなむ姓がある。
 また、有木の里では、戦後しばらくまで、源氏の旗が白旗だから、鶏や兎など白い家畜は飼わず、衣類や祭りの幟も白いものは避けて色物を使っていた。有盛が小黍の畑で討死したと言われることから、里人は昔から小黍を作らなかった独特な風習や伝統が残っていた。