平有盛の風景
大野原町五郷・有木谷は、源平屋島合戦の後、平有盛が隠れ住んでいたところだと言われている。
小松少将有盛は、平重盛の子、清盛の孫にあたる人物で、歴史の本では、長門の壇ノ浦で自害して果てたと伝えられているが、有木には、左衛門尉某、あるいは、有木左衛門という変名を使って、屋敷を構えていたと思われる地名やそれにまつわる物語が数多く残されていることから、長い年月この地に留まったと信じられている。
それを証拠立てる一つが、逃げ延びる際に携えてきたと伝えられる阿弥陀如来像、名剣小烏丸、陣太鼓などの品々。その中で、平家伝来の小烏丸は、盗難にあい、残念ながら現在その太刀箱だけが残されているのみだが、痕の阿弥陀如来坐像と陣太鼓は今も大切に残されている。
また、館屋敷、お宝屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷、烏帽子屋敷など、有盛やとりまく武将ゆかりの住居を示す地名、さらに神子谷、王塚、鞍掛松、隆旗など平家にまつわる地名がいくつも残されている。
そのほか、平家の旗が赤旗で源氏の旗が白旗だったことから、また、有盛が小黍の畑で討死したと言われることから、里人はけっして小黍を作らなかったなどという独特の風習が、最近まで残されていた。
小松少将有盛は、平重盛の子、清盛の孫にあたる人物で、歴史の本では、長門の壇ノ浦で自害して果てたと伝えられているが、有木には、左衛門尉某、あるいは、有木左衛門という変名を使って、屋敷を構えていたと思われる地名やそれにまつわる物語が数多く残されていることから、長い年月この地に留まったと信じられている。
それを証拠立てる一つが、逃げ延びる際に携えてきたと伝えられる阿弥陀如来像、名剣小烏丸、陣太鼓などの品々。その中で、平家伝来の小烏丸は、盗難にあい、残念ながら現在その太刀箱だけが残されているのみだが、痕の阿弥陀如来坐像と陣太鼓は今も大切に残されている。
また、館屋敷、お宝屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷、烏帽子屋敷など、有盛やとりまく武将ゆかりの住居を示す地名、さらに神子谷、王塚、鞍掛松、隆旗など平家にまつわる地名がいくつも残されている。
そのほか、平家の旗が赤旗で源氏の旗が白旗だったことから、また、有盛が小黍の畑で討死したと言われることから、里人はけっして小黍を作らなかったなどという独特の風習が、最近まで残されていた。