随筆「歩く」

 
     歩 く
         剣 持 雅 澄
「あるく」の「あ」は「あし」の「あ」に通じる日本語の根源である。文字のなかった大和民族において「あし」で「あるく」という話しことばは原初的に自然発生していたにちがいない。誰言うともなく使用されるようになったことば。日本列島の原始時代も、共同生活が営まれるようになって以来、動作と機能の根幹をなす「あるく」「あし」は「にほんあし」の「にほんじん」の原点に立っていた。二本足で立った日本人が、ただ立っただけではなく、更に「歩く」「歩む」と進化していく過程が想定されるのである。
「這えば立て、立てば歩めの親心」と言われる人の子の成長過程は、人類共通のDNAに仕組まれて、天与のものとも錯覚されるが、人類の獲得した文明文化の第一歩であった。まさに「歩」という動詞的名詞がスタートラインで出番を待っていた。
 何事も初歩から始まる。一足飛びは怪我の元。すべからく一歩一歩の前進。退歩は避けねばなるまい。遅遅として進まずとも、地歩を固めて前向きに歩くこと。速歩、闊歩は怪我の元。独立独歩のひたむきもよし。譲歩、漫歩の屈折もよし。「歩く」者に幸あれ。「歩ける」者に祝福あれ。すべて「足」は「悪()し」という説には心情的に納得できない。身体の悪しく汚い部分とは言い過ぎではないか。
「はし()」からの転という説にかろうじてうなずける。身体の部位として名づけただけではなかろうか。
 次に、異色の語源説を紹介しておこう。
 両脚の間の意の「跨」の別音Aと、足の先の意のㇱ()の合成語で、脚部の総称。単にアというのは右の跨である。(与謝野寛『日本語原考』)
 再び「あるく」の語源説にもどる。
「あるく」は「あゆく」から。ア()にルがついてカ行に活用した(賀茂百樹『日本語源』) 
 このように、必ず足を使ってでないといけないかとなると、必ずしもそうではない。
「歩く」とは、足を使って(また、乗り物を使って)あちこち移動することであって、歩行器を使うこと、車椅子を使うことも含めていいのではないか。
 今、「歩く」ことが健康によいと広く勧められている。万歩計を着けているのかどうか知らないが、ウォークしている姿をよく見かける。自分はそのようには歩いたことはない。公園に反故が落ちていても、拾いもしないで、自分の健康のためにのみ歩く人とはいっしょに歩けない。
 三豊平野を能率悪く歩いていたら大変だ。能率よく調査研究するには自転車で充分。少々の坂道も降りないようにして、ペダルを漕いで足腰を鍛えている。一日三時間はそうした時間を持っている。行動半径は十キロほどであるが、三豊平野を我が庭にして走り回っている。
 歩いてもだらだら歩くことはない。かつて生徒たちに「風のように来て、風のように去っていく」と皮肉をこめて言われたが、その癖は今も直っていないし、老いてますます慌ただしく「歩きあるいている」即ち、歩きまわっている。速歩、そして自転車で走る。ゆっくり歩くことはほんどない。
仁尾へ、詫間へ、豊浜へ、そして県境を越えて川之江へ。自然が好き、海が好き、すべて瀬戸内の風景が自分の家郷、ふるさとの風景である。
ほんとうのところ、人が好きとは言い切れない。文化も絶対ではない。そこから来て、そこへ還ってゆく太虚なる自然、風景の中に溶け込むのが好きだ。山ではなく、海だ。我が郷里柞田村(誤って観音寺市編入され町になっている)は、山が一つもない。このような旧村は三豊のどこにもない。
海がある。しかし、三豊干拓地で埋め立てられ、遠浅の自然海岸はなくなっている。テトラポットで隔てられているか、その向こうに確かに燧灘、母なる海が広がっている。
我が家から三豊平野の果てにいくつもの山が見える。南に四国霊場最高峰の雲辺寺山、東に金毘羅の象頭山空海善通寺五岳、西に七宝山・琴弾山、宗鑑の興昌寺山等がすべて遠望される。
讃岐は西の端三豊平野に生れ来て、心ならずもこの地に住み着き、今一生を終えようとしている。
感傷的にならないで、すべてに超越して自然観照していたいところだが、まだまだ悟れていない、生のずぼらな人間である。
結論ではない、この小文の結びを述べておこう。
点から点に移動する場合は原則として自転車である。半世紀近く乗ったバイクも止めた。もちろん、車に乗らずに過ぎてしまった。
自転車でふるさとの風切ってゆく              雅舟
 (同人誌「随筆無帽」582号草稿)