早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 
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                           香川県観音寺市琴弾八幡宮境内【早苗塚】
   「早苗塚」通信(1) 
 そこを【はせを聖域】と呼ぶ。「早苗塚」「芭蕉句碑」の前庭空間の仮称である。
平成20年2月10日の地方新聞に「石碑のある風景」(54)として報道され、少しは讃岐香川県内に知られたかのようにうかがえる。四国に渡ってきてもいない芭蕉の、「奥の細道」の一句が刻まれていて、どれほどの意味があるか。これは誰が考えても、答えは明白である。この単純な切り捨て御免がまかり通っていた。
  ところが、つらつら考えなおしてみるとき、なぜに芭蕉崇拝者が古今東西に多いか。足跡を残しているかいないかにかかわらず、恐るべき芭蕉句碑・芭蕉塚の全国分布。沖縄を除く日本全県に3239基の芭蕉関係の石碑がある。芭蕉生前から今に至るまで、ひょっとすると、未来永遠に芭蕉 碑は建て続けられるかもしれない。
永遠なるものを詠い続けた俳聖(日本最高の俳人文人)なればこそである。
     早苗とる手もとやむかし志のぶ摺   はせを
 この18文字が芭蕉の真跡に基づいて句碑に成ったと認められるからである。これを所持していた俳人が地元の小西帯河であった。墓碑は直系小西家で守られている。この度の報道で確証の電話連絡を頂いたのはありがたかった。周辺清掃の協力体制の動きがあるのも、喜ばしい限りである。どうもボランティアということばがしっくりしないので「なにやら芭蕉奉仕班」とでもしておこう。天下の琴弾八幡宮一の鳥居傍「早苗塚」を祀る「はせを聖域」にどうぞお越し下さい。   (2008年2月12日)
    「早苗塚」通信(2)
 新聞報道以来数日、早苗塚に関する県内へのPRは大きかったという感触を覚える。単なる句碑説明であったら、注目されなかったのではあるまいか。この句碑や周辺を大切に守っている人の姿が読者の心をとらえたにちがいない。「新聞で見たので、どなものか見に来ましたよ」と言う人。通りすがり「きれいにしてますな。感心しま
す」と声をかけてくれる人。「新聞、切り抜いていますよ」と言ってくれる知人・友人…。
 私の古典講読講座も郷土文学探訪へ転身しようとする結節点にある今、公に芭蕉塚・句碑を唱導できたの
は意義があった。来年でからは「芭蕉塚・早苗塚」から郷土文学講座を発進する。
 付録のようだが、清掃活動も社会的意義をもっている。ボランティア活動として正式届け出ではなく、恣意的、自発的、自然発生的なものである。観光や見学で訪れてくれる人に汚れた現地は見せたくない。絶えず掃き掃除はしなければならない。  (〃2月15日)
    早苗塚通信(3)
 その後、早苗塚周辺はますますきれいになつている。本尊である「芭蕉句碑」は相変わらず黙秘権を駆使している。何も言ってくれないのは、実に寂しいものだが、半永久的に佇んでいてくれることで我慢しよう。楽しみは27句の献句碑の読みが徐々に判ってきているのが、何よりの収穫である。おそらく、何十日も何百日もかかるだろう。「花」「月」「早苗」「時鳥」「時雨」などところどころ単語が分かるくらいである。読みにくくても、読み取る解読力を身に付けたい。ところで、「早苗塚」は裏山全部を指すかもしれない…と思い始めた。この小山は盛り土のように南隅に陣取っている。石段・石垣を造った同じ時に、残土を盛り上げたのかもしれない。しかし、これでは大古墳になり、俳聖には重荷すぎようか。      (〃2月22日)

 奥の細道  信夫の里

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥山陰の小里に石なかば土に埋もれてあり。
里の童べの来たりて教えける。昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草をあらして、この石を試みはべるをにくみて、この谷につき落とせば、石の面下ざまにふしたりといふ。さもあるべきことにや。
  早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺

〔参考文献〕もぢ摺石は、福島の駅東一里ばかりに山口と云処に有。里人のいひ伝え侍るは、往来の人の此石試むと、麦草を荒らし侍るを憎みて、此谷に落し入侍るよし。今は茅の中に埋れて、石の面は下ざまになり侍るとかや。誠風流の昔に劣り侍るぞ、いと本意なく覚侍る。
 早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺 はせを  (元禄十一年序・露泉編「網代笠」)