今「清貧の思想」

 
 
       大野原中学校 校訓碑    
  和      介      健
        なごやか  ひとりだち  すこやか
 
 「清貧の思想」            中野孝次
 日本には古来からモノにあまり執着せず簡素な生活を送るべしという清貧の思想があった。
「もったいない」という言葉が代表するように、モノを大切にしモノを最後まで使い切るという習慣が生活の中に根付いていた。それが、現在ではすっかり変わってしまった。アメリカ型の大量消費社会となり、どんどん新しいモノに替え、以前あるモノは寿命が来る前にどんどん捨てていく。日常生活の中で「もったいない」という言葉があまり聞かれなくなってしまっている。
確かに、そのような大量消費社会は経済の発展には大きく寄与した。焼け野原となった日本は、大量消費社会を実現することによって、世界第二の経済国といわれるまでに復興した。そして、夢であったモノが溢れる社会を実現することができたが、でもその社会は当初思っていたような幸せ溢れる社会の実現ではなかった。現代人はカネやモノの奴隷になってしまっているのである。
カネやモノが豊富にあれば人は幸せになれると思っていたが、そうではなかった。昔の賢人たちは、モノがあればあるほど幸せになれるというのは間違っているということに気がついていた。そして現代人もようやくそのことに気がつき始めた。
人にとっての真の宝は、財産でも名声でもなく、今生きているこの一瞬一瞬であるという。財産や名声などというはかない宝に惑わされずに、この一瞬一瞬を楽しむことが一番の幸せなのだという。とは言っても、現代社会においては、昔のような清貧な生活をするということはとても現実的ではない。しかし、この清貧の思想の一部でも日常生活に取り入れていくことができたのなら、あくせくしたままの一生を終えないで済むかもしれない。
人の幸せとは何か、幸せを感じるにはどうしたらいいのかを、絶えず探し求めてきたが、この本の中にそのヒントが隠されているような気がした。
まえがき
・日本が非常に高度な工業技術と生産性とを持つことは、これらの製品でわかるが、これを作った日本及び日本人とは一体いかなるものか、物は見えても人間の顔がみえない。
・日本人とはただホモ・ファーベル(物を作る人)であって、物を作って売るだけの者なのか、それ以外の文化を持たないのか。
・日本には物づくりとか金儲けとか、現世の富貴や栄達を追求する者ばかりでなく、それ以外にひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある。ワーズワースの「低く暮らし、高く思う」という詩句のように、現世での生存は能うかぎり簡素にして心を風雅の世界に遊ばせることを、人間としての最も高尚な生き方とする文化の伝統があったのだ。それは今の日本と日本人を見ていてはあまり感じられないかもしれないが、私はそれこそが日本の最も誇りうる文化であると信じる。
・いま地球の環境保護とかエコロジーとか、シンプルライフということがしきりに言われだしているが、そんなことはわれわれの文化の伝統から言えば当たり前の、あまりにも当然過ぎて言うまでもない自明の理であった。だれに言われるより先に自然との共存の中に生きて来たのである。
1.心の内なる律を尊ぶ
・名物は、それが名物なればなるほど「やれ落とすな、やれ失くすな」とそれに心をとられ、心の平安を失わせる。そんなものに心を乱されるくらいならいっそ持たぬにしかぬと、みんな人にやってしまって、おのれはごくふつうの雑器で茶そのものを楽しんだ。
  2.慳貪にして富貴なることを嫌う
・人間が生きてゆくためには一体何が必要で何が必要でないかを、妙秀は日ごろよほどに徹底して省察していたのだと私は思う。人ひとりが心の充実をはかりながら生きてゆくうえで、住居、家具、着物、食物その他生活のあらゆる面で、何があれば足り、何がなければ不足か、それを考え
抜いた末が、およそ極限と思えるほどきりつめた簡素きわまりない所有となって示されたのだと思う。
・世間ではともすれば金銀でも持物でも多く所有すればするほど人は幸福になると信じているようであるが、これくらい間違った考えはない。むしろそれは逆なのであって、所有が多ければ多いほど人は心の自由を失うのである。
・考えてみるがよい。大邸宅を営めば、その維持管理に大勢の人を使い、維持するだけで終日心を労さねばならなくなる。珍器財宝を所持すれば、やれ壊すな、やれ盗まれるなとたえず気を使わねばならぬ。そもそもそういう大邸宅の暮らしを維持するには莫大な経費がかかり、それをつく
りだすためにもますます稼ぎ出すための働きをしなければなるまい。まことに愚かなことである。人は所有が多ければ多いほど所有物に心を奪われ、心は物の奴隷となってしまう。されば、もしそなたが自由にのびのびと日を送ろうと念ずるなら、物欲などは捨てることである。物への執着から自由になったとき、人の心がどれくらい豊になるかを志って欲しいものである。
・人間は生きてゆくうえで必要欠くべからざるだけの物があればよい。それ以外の物なぞ何も持たないのが真の自由人というものである。その人が死んだあと財が残っていてはろくなことがない。つまらん絵画だの骨董だの、書物だの家具だのが残っていれば、あいつはこの程度の人であったかと思われる。邸宅や田地や金銀が残っていれば、相続人たちが「我こそ得め」と血なまこの争いをしよう。死後そんな争いが起こるようなことは智者はしないもので、もし与えるべき物があるなら生きているうちに譲ってしまうのがよいのだ。
 3.省みて疾しければ己れなし
・大事なのは他人の目ではなく、己れの心の律なのだ。たとえ誰ひとり知る者はなくとも、己れひとり心に省みて疾しいことをすれば、もはや己れはダメになったのだとする心持ちこそ、かれらが最も大事にしたものだったのである。露見なければ、法を犯してどんな汚い金でも平気で手に
入れようとするような輩とは、まるで心掛けが違っていたのだ。
・名誉は紳士に欠くべからざるものであるが、名誉とは、ただ世間の評判のことではなく、自尊心を、したがって高潔、無欠、自足を、意味した。金は軽蔑すべきものと考えていた。それは本質的なものであるはずがない。一文なしでも、無形の人格のほうが金より重要だと確信していた。
・現代の日本のビジネスマンが海外で「かれらは金の話しかしない。すべての価値を金で計ることしか知らない」などと評判を立てられているらしいのを、まことに残念ことと思わずにはいられないのである。紳士というものは社交の席で絶対に金銭の話なぞしないものである。
・日本人はかつては決してそうではなかった。かつてはかれらも人前で金銭の話をするのを卑しみ、なによりも名誉を重んじ、高潔にふるまうことを尊んだ。
・日本が世界に誇るべきは、この国が経済大国になったことでも、輸出大国になったことでもなく、人間としての最も大切なもの「無形の人格」にかかわる事柄であると信じるからだ。
・日本人の全部が全部、取引きの成功とか、金儲けとか、金額と数字以外に尺度を持たぬ人間であるわけがないのである。
  4.三界は只心ひとつなり
・人が真に幸福になるかならぬかは、現世での成功や失敗によってではなく、心という誰もが与えられていながら日ごろは欲望に覆われているために曇らされている、その世界にかかわることだと、形而上的な体系を教えたが日本では仏教であった。
・神仏と日本ではいうが、このようなある絶対的な見えぬ存在を信じ、それに対する垂直の関係を 第一としたことが、大変なことだったと私は信じる。現代は仏教がそういう役割を完全に失い、形骸化し、それとともに普通の生活者もこういう目に見えぬ存在を畏れる心を失った。絶対的な存在がなくなれば、法律とか評判とか、世俗の横の関係ばかりになって、内にみずから律するものを持たなくなる。
・この世で一番大事なのは心が安らかであるかどうかである。もしたえず安らかならぬ心の状態なら宮殿に住んだとして空しく、もし草庵にいても心安らかならそれほうがずっといい。
  5.嚢中三升の米、炉辺一束の薪
・自分は立身だの出世だの、金儲けだの栄達だの、そういうことに心を労するのがいやで、すべて天のなすままに任せて来た。いま自分には、この草庵の頭陀袋の中には乞食でもらって来た米が三升あるだけ、炉辺には一束の薪があるだけ。そういう極限の不安な状態にあるのだけれども、
これだけあれば充分、迷いだの悟りだのということは知らん、まして名声だの利得などは問題ではない、私は夜の雨がしとしとと降る草庵の裡にあって、二本の足をのどかに伸ばして満ち足りている。
・ないのが常態であるとき初めて人は物のあることに無上の満足と感謝を覚える。あるのが常ならば、ないことに不満こそ感じても、決してありがたがる心持は湧かないであろう。とすれば、身辺をつねに欠乏の状態すれすれに置くことは、それが感謝をもって生きることの工夫であるかも
しれないのだ。
 6.数奇の心、数奇者のみが知る
・人は自然のままに放っておけば、物が欲しい、金が欲しい、地位が欲しいと、あればあるでさらに多くの所有を求める。欲望には限りなく、権力ある者はさらに権力を、富裕なる者はさらに金銀を欲してやまない。けれども現実にある冨や土地や資源には限りがあり、権力と権力とは両立
しない、欲望のままに放っておいてはこの世は争いの地獄になるしかないという認識から諸悪の根源を欲望にあると見て、平安を得るためには欲望を断てと教えたのが宗教であった。
 7.死を憎まば、生を愛すべし
・自分が今生きて存在しているという、これに勝る喜びがあろうか。死を憎むなら、その喜びをこそ日々確認し、生を楽しむべきである。なのに愚かなる人々はこの人間の最高の楽しみを楽しまず、この宝を忘れて、財産だの名声だのというはかない宝ばかりを求め続けているから、心が満
ち足りるということがないのだ。生きているあいだに生を楽しまないでいて、いざ死に際して死を恐れるのは道理にも合わぬことではないか。人がみなこのように本当に生きてある今を楽しまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないのではない、死の近いことを忘れてい
るからに外ならない。
・人間にとっての最高の宝は財産でも名声でも地位でもなく、死の免れがたいことを日々自覚して、生きて今あることを楽しむことだけだ。
・スケジュール表に予定をびっしり書き込んで、絶えず忙しく動き回っていないと生きた気がしないような人の気が知れない。私にいわせれば、人間は他のことに心を紛らわされず、己れひとり居て心を見つめているのがいいのだ・世間並に暮らそうとすれば、心は儲けごととか商談とか出世とか、そんな外の塵に自分も心を奪われて惑いやすいし、人との交際を重視すれば、テレビだの新聞だの意見や情報に引き回され、まるで自分が自分でなくなってしまう。楽しく付き合っていたかと思えばすぐに喧嘩をし、恨んだり悦んだりして切がなく、心の平安なぞ望むべくもないああすればとか、こうすればと考えて利害の関心から抜け出せない。まるで惑いの上に酔い、酔いの中で夢をみているようなものだ。だが、世間を忙しく走り回っている人を見ると、事に呆けて肝腎なことを忘れている点では人はみな同じである。
・だから、まだ真の道は何かを知らずとも、仕事、人間関係、世間体などの諸縁を断ち切って心を安らかにしておくのこそ、生を楽しむ態度だと言うべきである。
・世間のままに動いていては心の充実は得られない。世間並の生から距離をとって己れの心をしかと見つめよ、それこそが存命の喜びを楽しむことだ。
・いまは無形の価値というあやふやなものでは満足できないかのように、すべて数字であらわさないと気がすまないらしい。子供の学習能力も絵画の価値も豊かさもみな数字に換算し、数字の高いほどいいとするふうだが、平均寿命何十歳などといっても、それがただ肉体的生命の延命だけ
を意味するなら、一体それに何の値打ちがあろう。一つの生が真に充実していたかどうかは、内に満つるものによってしかわからず、それは数字などとはまったく無縁のものだ。
・病は人生の大きな挫折であるとすらなら、その挫折を体験することによって、自分が生きてあるというそれまで当たり前のこととして受取っていたものの価値を発見する、挫折した体験のない者は生涯その価値に気づかないかもしれない。
 8.一句として辞世ならざるはなし
・生の時間は棒のように未来に向かって延びていくものではない。生きてあるという時間は生きてある今この一刻一刻が生のすべてであって、それは明日にも不慮の事故で断ち切られるかもしれない。今がすべてと今この時を生きないかぎり、われわれはついに生きた時を持たないで終わる
だろう。
 9.利に惑うは愚かなる人なり
・効率的な生産第一主義で物の生産にばかり偏ってしまったのはせいぜいこの半世紀くらいの現象で、それも元はといえば敗戦ですべてを失い、少しでもいい生活をと追求してきた結果である。実際われわれは廃墟の無一物から出発せざるをえなかったかのだから、物質至上主義になったの
もやむを得ない面はあるのだ。が、それだけではいけないことにわれわれはいま気がつきだしている。
・確かに物はゆたかになった。EC国のどの国にも劣らぬくらい市場に物は溢れている。しかし、物の生産がいくらゆたかになっても、それは生活の幸福とは必ずしも結びつかない。幸福な生のためには物と違う原理が必要であることにわれわれはいまようやく気がつきだしている。いや、
むしろ物にとらわれる、購買、所有、消費、廃棄のサイクルにとらわれているかぎり、内面的な充実は得られないことに気づきだしている。限りない物の生産と浪費が地球上での共存の上からも、環境と自然保護からも許されないことを知っている。真のゆたかさ、つまり内面の充実のた
めには、所有欲の限定、無所有の自由を見直す必要があると感じている。
・日本にはかつて清貧という美しい思想があった。所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させるという逆説的な考えがあった。
・真の人間は利得とか名聞とかそんなものにかかわるところにいない、ただ己れの心の充実を求めるのみなのだ。
10.永遠の生と出会うために
・清貧とはたんなる貧乏ではない。それはみずからの思想と意思によって積極的に作り出した簡素な生の形態なのだ。
・富貴への願望、所有への欲望が旺んであればあるほど、人は財の増大が唯一の徳であるかのような錯覚に陥って、所有の上にも所有を欲し、そのためにはいかなる非人間的な所業をもあえて行うようになる。われわれは最近も、1980年代のいわゆるバブル経済の繁栄の中でそういう欲望の奴隷になった連中を多く見たばかりだ。
・ひとたび所有欲にとりつかれると、人は所有の増大のみ関心を奪われ、金銭の奴隷となって、それ以外の人間の大事に心が及ばない。家族への配慮とか愛とか慈悲とか、人間としての最も大事なことにさえ気が向かわず、富貴な人は必ず慳貪になる。そればかりでなく、かれらは物の取得
保全に心を奪われて、みずからの精神の自由さえ失っている。
・所有を必要最小限にすることが精神の活動を自由にする。所有に心を奪われていては人間的な心の動きが阻害される。
・地上の生の最も簡素なミニマムなものにすることによって初めて宇宙の原理たるものに通ずる可能性がひらかれる。
・みなさんの中には日本式庭園を見た方もいるでしょうが、あれはまったくヨーロッパ式庭園とは違う原理で造られている。われわれが庭園に求めてきたのはあるがままの自然の再現である。日本の昔の巨匠たちはそこで庭園の中に池を掘り、山を築き、松や竹や、桜や楓や、自然界の植物を植え、能うかぎりそこに、人間の手で作ったものでありながら人為の影を残さない小宇宙を作ろうとした。
・日本の住居は庭園ばかりでなく家屋も自然に対して同化しようとしているのだ。西欧の家屋が外部に対して内部を閉じ、自己防衛的、閉鎖的であるのに対し、日本の家屋は広い開口部を設けて自然に向かって自己を開放している。内部にも閉鎖空間を作らず、襖あるいは障子といった自由
な間仕切りによって区切られるだけで、ふだんはそれも開放され家の中全体が外の自然とつながりあっている。風も光も自然はその表情をそのまま家屋の中に持ち込み、人は家の中にいても自然の変化をともにできるのである。
・人間をあらゆる被造物の中の最も優れたものとして、自然を征服し人間に従わせるという考え方は、人間の倣慢であると私は思う。自然を対象化して切り刻み分析し利用するという態度から、近代科学文明が発達し、われわれはいまその恩恵を蒙っているが、その科学文明がいかに地球が
傷つけ破壊してしまったかをも一方では見ている。そこから自然保護とかエコロジーとかが叫ばれだしたが、自然をこのように友として来たわれわれからいえば、そもそもその根元が間違っているからであって、自然に対する態度を変えない限り根本的な解決はないだろうと思われる。
 11.うれし顔にも鳴くかはづかな
・物や金や機械への執着は死物への執着である。私有財産への支配を徹底させるためには、それを守るための力を必要とする。力への欲求が生まれる。守るために武装兵力さえ必要とするにいたる。物を所有することを誇るのは、他人に対する優越性を物において、物を維持する権力におい
て示そうとすることにほかならない。こういう物への愛は決して生きているものへの愛に転化することはない。
・持つ物は、物である限りすべて数量で価値を示され、すべてのものは、それが芸術作品であっても、いくらというように数字であらわされうる。しかし数字で人間への愛、生き物への慈しみをあらわすことはできない。それは心の体験に属し、計量することが不可能な領域に属するものだ
からだ。だが現代人が計量不能なものにまでも数字で示したがるとしたら、それはかれらがそういう心の領域での経験そのものと、その経験したことをあらわす言葉を持たないせいかもしれない。体験しなければそれをあらわす言葉ももてないわけだ。
12.清く貧しく美しく
・私の母がふだんよく口にしていたのは「もったいない」という言葉でした。これは表面上は「物を粗末にするな」ということですが、たんに倹約せよというのではなく、もっと深い「神仏に対して不届きである、畏れ多い」という意味がこめられている。食物ならたとえ米の一粒、菜の
一切れでも、充分にその用を果させないでムダにすることを、いのちを冒涜する行為、天に対して畏れ多い行いだというのだ。だから彼女は紙一枚、紐一本でもいたずらに捨てずにとっておいて、必ずそのう王をなさしめ、決してムダにはしなかった。
・今日ではしかしわが国も大量消費社会への反省から、リサイクル運動が進められ、環保護、エコロジーが緊急の問題になっている。ドイツの「緑の人々」と同じように、物を浪費しないシンプルライフを主張し簡素な生活を実行している人たちも出てきた。しかしわたしに言わせれば、これまで紹介して来たことから察せられると思うが、われわれ先祖にとってそんなことはわざわざスローガンにするまでもない、身に付いた当たり前のことだったのだ。かれらは物を人間の生きる上で必要以上に浪費することを天の許さぬもったいないことと見做し、必要最小限の物を大事に使うシンプルライフを実践してきたのだ。それが「清貧の思想」というもので、まっとうな人間なら当然そうあるべきものと考えていたのだ。
・地球資源に限度がある以上、富める北側が資源多消費社会を営み、貧しい南側が貧困と飢えに苦しむ構造を、このまま放置しておいていいわけがない。すでに南北の経済的ギャップは地球上各地で摩擦と紛争をひき起こしている。資源でもエネルギーでも北側が大量に消費すれば南側はそれだけ欠乏する構造になっているのだから。この矛盾した構造の根本的な解決のためには、歴史上かつて実現されたためしのないことだけれども、繁栄する国、富める国が、その社会と生活レベルを多消費型から共存型へと下げる以外にないのではないか。
  11.誰人か足らずとせん
・残念ながら戦後の日本は、われわれ先祖が持っていたそういう知恵を生かす方向には進んで来なかった。反対にそれを否定し破壊してばかり来た。そして今このままではどうにもやっていけないところまで事態は来ている。
・人間の向上欲は限りがなく、一つの上等をと欲したばかりでなく、一つの段階が実現されるとそれに満足していないでさらに上を望む。衣食住すべての点でもっと上等を欲したばかりでなく、今度は新たにステレオを、ピアノを、クルマをと欲望の対象も増えてきた。街には商品が溢れだ
し、クルマでも電気機器でも住宅でも次から次へ新製品が作られ、魅力的な広告によってわれわれの欲望を刺戟しだしたから、そのころからわれわれは絶えざる欲望の虜になって、新製品を追いつづけて来たような感じがする。そしてわれわれはただの人間ではなく消費者という名で呼ばれるようになっていった。
・人間にとって一体何が必要で何が必要でないかを冷静に考えて選択する余裕もなく、ひたすらただ次から次へと市場に出現する魅力的で便利で機能的な商品の消費者とされてしまった。
・昔は、人の所有するすべてのものが大切にされ、手入れされ、役に立つ限り最後まで使われた。買い物は、〈長持ち〉の買い物であって、十九世紀の標語としては、「古いものは美しい!」がふさわしかった。今日では、保存ではなく消費が強調され、買い物は〈使い捨て〉の買い物となった。買ったものが車であれ、服であれ、小道具であれ、それをしばらく使ったあとは飽きてしまって〈古いもの〉を処分し、最新型を買うことを熱望する。取得→一時的所有と使用→放棄(あるいは、できればよりよい型との有利な交換)→新たな取得 が消費者的買い物の悪循環を構
成するのであって、今日の標語はまさに「新しいものは美しい!」となりうるだろう。
・途方もない使い捨て消費社会が出現していても、しかしその中で暮らしているわれわれには「豊な国に暮らしている」という実感がほとんどないというところが問題だ。物が溢れ消費されているが、生きてゆくうえでの肝心なところでは貧しいとしたら、それは「豊な国」とは言えない。
・日本社会には物が溢れ消費されているといっても、クルマにしろテレビにしろ服飾や電気製品にしろ、そういう若者でも購入できるものが溢れているのであって、生きるうえで一番重要な住宅、生活の安定、福祉といった面ではまことに貧寒なものと言わざるを得ない。日本は貿易黒字国で金持ちだとよくいわれているが、そんなものはあるとしたらわれわれ生活者には関係のないどこかにあるのであって、われわれには少しも実感できぬ抽象的な数字にしか過ぎない。しかも物の消費は豊かという感じよりむしろ荒廃の印象を与え、捨てられた物を見ると、われわれの生活はこんなヤワな永続性のない物で成り立っているのかと、いっそ心細い気がするくらいだ。
・日本が一大産業社会になったのは事実だろうが、それがわれわれ生活者に「豊かさ」の実感を与えない以上、どこかが根本から構造的に狂っているとしか言いようがない。本当ならば物が溢れている、何でも買うことができる、便利で快適になったというのは、生活を豊に幸福にしてくれ
るはずではなかっただろうか。なのに実情は、われわれはそんな中にいて幸福をと感じることが 出来ず、むしろ人間性が物の過剰の中で窒息させられているように感じている。どうしてこんな結果になったのか。物質的繁栄がわれわれに真の幸福をもたらさなかったとしたら、それはその盲目的追求そのものの中にどこか間違ったところがあったと考えるしかないだろう。
・われわれはもう一度出発点に戻って、人間には何が必要であって何が必要でないかを検討し、それに応じて社会のしくみ全体を変えねばならなくなる時に来ているように思う。
  12.諸縁を放下すべき時なり
人間性をとりもどすために、われわれは生活をもう一度根本から考え直す必要があると思われる。社会全体についてはどうしようもないから、せめてその中で受動的に流されっぱなしだった自分自身の生き方だけでも、自分で納得のいくものに組み立て直したい。過剰の中にあってそれが自分を幸福にも豊にもしてくれない、いや、それどころかもはやこれ以上このままではやっていけないと感じる以上、自分の意志で生を納得しうるものに再構築することが自己に対する義務だと思う。
・戦後の窮乏の中から出発したわれわれが、生活を少しでも豊にしようと懸命に働いて来たことは、人間として当然であった。それは賞賛されこそすれ咎められる筋合いはまったくない。が、より豊な社会をと願うその過程で何かだれも自覚しない路線の誤りがあったのだ。気がついてみると、われわれは物質文明こそ栄えているが、心の豊かさや安らぎのない、奇妙に空虚な事態に直面しているのだから。その誤りとは、わたしは、第一には、人間への配慮なしに、それを作ることが技術的に可能だから物を生産し、売れればよしとしてきた原理だけに大きく傾斜していったこと、第二に、何よりも経済的効率主義をもって生産するのを誰もが疑わなかったことにあると思っている。ただ、物の過剰の中でわれわれの生が決して充実しないことを知った現在こそ、生産とか所有とかを根本から見直す好機だろうと、私は思っている。物質的繁栄もそれを知らなければその悪を知ることもない。そして物の過剰がもたらす弊害を知らなければ、簡素な生のよさもわからなかった。
・今日の日本は、どういうものかいたるところに目に見えないきまりが出来ていて、生活、交際、服装、ふるまいに枠を設けているように見える。結婚式で司会のうながすままに拍手したり立ったり座ったりカメラを向けたりするように、法で定めたわけでも命令されているわけでもないが、それに従わないと仲間外れにされるきまりが人を拘束している。若者ほどその人間生活におけるしきたりを強く感じているらしく、かれらは服装、持物、髪型、言葉づかい、話題にいたるまでみんなのするとおりにして、外国人が見れば意H一つの同じユニホームに型どられているのかと驚くほどだ。
・所有なぞ何であろう。所有の世界にあくせく奔走している者たちなぞ、かれらにはあわれな欲望の奴隷としか見えないに違いない。時間とは数字ではない。生きるとは数字を重ねることではない。いかにスケジュール表を分刻みで忙しく満たしたところでそれは少しも生の充実にはならぬ。所有をいかに増やしたところでそれをいくら足しても生の充実は得られぬ。人生は足し算ではないのだ。ほんとうの生を生きようと欲するなら、がんじがらめに拘束している所有関係からひとたび心身を脱落せしめよ。一切無所有の身となって天地に対せしめよ。時計の時間を離れ、永遠の緒磨ココをとくと味わえ。もしそのとき虚空の中に豁然と開けるものがあったら、それが生だ。