死ぬこと以外はかすり傷

      《死ぬこと以外はかすり傷》    
 生きている間には、すったもんだの出来事があって、死ぬほどの苦しみや悩み事がある。身も世もあられぬほどの悩みがある。しかし、どんなに嘆き悲しんでも、取り返しのつかない「人の死」でない限り、かすり傷同然である。なんとかかんとか始末がつく。つかなくとも、そう大したことではない。代替がきく。忘れられてもいく。
「死」…①自分の死、②愛する者の死…これは代替が効かない。絶対だ。
     順列を付ければ①そして②だ。殉死・情死(心中)は絶滅危惧種の現代だ。
     一緒に死んでくれる人はない。最後は独りで死んでいく。重傷・重病で逝く。
     これが人間(生物全般)に許された方程式(宿命)だ。なんとしい方程式!
     醜態・老醜を曝して何になる。
 死ぬこと以外はかすり傷。生きている間にどんな艱難辛苦に遭おうとも、この精神  
は大切だ。かすり傷はすぐ癒える。また、癒さなければならない。愛する人に裏切ら      れたとて、どれほどのものだ。死に比べればかすり傷、時が癒してくれる。自分自身が生きていさえすれば、事態は好転する。また、心を入れ替えて生きていくことだ。
 悩める者よ、掛け替えのない命が奪われていないとすれば、前を向いて生きていかなければならない。友よ、見知らぬ友よ、元気でまた会おう。電話をかけてくれたら、飛んでいくから…   

 【蛇足】しかしながら、死ぬことを大袈裟に考えなくてもいい。
     決まって皆年中行事のように死者は墓地に葬られていく。
     墓地に立つ墓石はあれはなんだ。
     生きた証しか。
     夫婦の戒名が併記され、死没年月日、享年。
     業績が刻まれたとて誰が読むというのだ。
     遺族の祈りか供養か知らないが、むなしい。
     墓には「森林太郎」それだけでいい。
     業績は生前の作品で示している。
     時が経っても人の心を打つ作品。
     名前だけではだめ。
     実質だ。
     世の為、人の為
     灯りを灯すほどの作品を遺せたかどうか。
     ただ長生きしただけではつまらない。
     五十で死のうと、六十で死のうと、些末なことだ。
     永遠に読み継がれる作品!
     人の心を打ち、けなげな人生を歩んだ
     そのことを語り継ぎ、言い継ぐ一言以外に
     人生の意味はあるだろうか?