名曲童謡「浜千鳥」

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 浜千鳥の歌碑は、作詞者鹿島鳴秋が南房総市和田町を愛し度々療養中の愛娘をつれ訪れていた。後に家族ともども和田町に移り住んだ。療養のかいなく愛娘は亡くなり愛娘を偲んで童謡「浜千鳥」の歌が作られた。
 弘田龍太郎の作曲のもと大正9年(1920)の雑誌少女号の正月号に発表され世間に流布されることになった。昭和41年3月(1966)に花園海岸の松林に高さ1mの黒御影石の碑石に浜千鳥の歌詞が刻まれた。
 また、高知県安芸市大山岬浜千鳥公園にも音声ガイド設置がある。
   弘田龍太郎(1892~1952) 享年60歳
 大正・昭和期の作曲家弘田龍太郎は、明治25(1892)年6月30日安芸郡土居村西木戸(現在の安芸市土居)に生まれる。
3歳の時に父の転任により千葉へ。その後、三重の中学校を卒業し、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学する。 卒業と同時に、同校の助手を勤めますが、大正6(1917)年、作曲部の新設にあわせて再入学。その後、講師を経て、助教授となる。
本格的な作曲活動は大正6(1917)年頃から、童謡「浜千鳥」「雀の学校」「春よ来い」などの名曲を次々と発表し、童謡・歌曲作家としての地位を確立。晩年は、作曲活動のかたわら、幼児教育に携わり、放送講習会やリズム遊びの指導にあたる。
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