人麻呂は益田市で生まれて死んだ。

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   人麻呂はどこで死んだか?
 柿本人麻呂は、石見国に役人として赴いた。石見の妻、依羅娘子(よさみのいらつめ)への思いを詠んだ相聞歌を万葉集に残し、「鴨山の」の題詞に「石見国で死に臨んで作った歌」とあるものの、終焉の地は定かでない。
 昭和の初め、斎藤茂吉の論文「鴨山考」で、鴨島の存在を疑う茂吉は石見を踏査し
歌人の感性を交えた推理で、山あいの同県美郷町湯抱(ゆがかい)にある鴨山こそ終焉地と断定した。驚いた高津の人々は「鴨山考批評会」をつくる。矢冨熊一郎さんも参加し、新聞紙上などで反論したが、相手にされなかった。
  その後、梅原猛が著書『水底の歌 柿本人麿論』で高津説を採り、熊一郎さんの説を紹介した。高津に光が当たり、論争は再燃した。今なお、終焉の地は未解決のままである。 (益田市は、人麻呂の生誕地も終焉地もここだと信じている)