昨夜の夢に出てきた女人は誰だったのか

    昨 夜 の 夢
 「箕浦駅で汽車に乗るから」
 そう言って彼女はそそくさと帰って行った。
 ぼくはその時あいにく誰かと話し込んでいて、彼女が会いに来てくれたのに、すぐ追い返すことになったのだ。話を早く切り上げて、彼女の後を急いで追うことにした。
 夢の中だから容易に歩けない。気ばかりあせっても、どうにもならない。この機会を逃せば永遠に逢えないかもしれない。これまで彼女の居場所をどんなな捜しても捜し当てられないで、ほとんどあきらめていた。一生逢えないのではないかと。それがなんのはずみか、彼女の方から半世紀の間があって、逢いに来てくれたのだということが、直感的に分かった。こんなうれしいことはない。願っても、願い続けてもかなえられなかったことだから。
 彼女は名を名告らず、顔も見せなかった。
「お名前は」「顔見せて」など失礼で言えるものではない。
 それは自分の恋しい人に違いなかったが、恋しい人は二三人いるから一人にしぼることはできない。この人と決めつけて間違っていたら、それは大変なことになる。勘違いとか呆けではすまされない。これまで一度失敗しているから、これからは二度と失敗しないよう、細心の注意を払っている。
 相手を間違える、こんなことは人間失格。生命の危機には至らないが、人間性にかかわってきて、禍根を残して消え去ることはない。
 さあ、それで、逢えば分かる。名前は出て来なくても、笑顔で対して
「懐かしい。逢いたかったよ」と言っておけばいい。
 絶対に抱きついたりしない方がいい。それはその場になってみなければわからないけれど、せいてはことを仕損じる。
 僕は女の後を追っかけていく。無人駅の箕浦駅まで、なだらかな山坂道をいそぐ。
 恋人に会いに行く胸のときめき…それは何十年ぶりだろう。
 自分は自他ともに文学青年だった。中年が来てもそれは許された。しかし、傘寿になった今はあきらめている。死ぬまでなんとかと言うけれど、恥ずかしいことである。
 魂と魂の付き合いならいいが、老醜を感じながらの付き合いなどまっぴらである。
 それで、夢の中での再会ならば、現実を超越して、若い時のままの観念と感傷の付き合いができる。それが神様からいただいた罪のない、ウブな再会というもの。
 夢がはじけて「ああ、久しぶりにいい夢を見た」と自分は独り呟いた。
 辺りに誰かいないか見回したが、完全無欠の独居老人には猫の子一匹いない。