小品「一里塚」

     
     小説  一 里 塚
         (一)
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光ちゃんが好きで好きでたまらんの」
 なんのはずみで竹夫に打ち明けたのか、覚えていない。確か高校を卒業してからのことだったろう。一波吹き荒れた後に志乃のもらした言葉だった。
 志乃と光子は小学校以来の親友で、それぞれの個性を生かしてクラスの中心人物だった。
 知性的で頭のいい、誰も一目置く、将来は女史と名のつくような女の子だった。一方、志乃はお転婆で、何かと気の付くところはあったが、つい先走って顰蹙を買うところもあった。それでも、根っからの楽天家で、すぐ忘れる単純さで生きていられた。
 仲の良かった女の子二人が決裂するのは、一人の相手を奪い合う時である。古今東西を問わず、そうであるように嫉妬は女偏であるのもうなずけるところである。三角形の底辺が分からなければいいものの、鋭くそれが察知、または邪推された時、事は面倒になる。
 氏神様の木蔭に呼びだされて、光子は志乃に首を締められることになる。
 ほうほうの体で逃げ帰った光子は、すぐ竹夫に手紙を書いた。
「今後一切、私のことを彼女にあれこれ言わないでください。私はあなたのことを何も思っていないのですから」と切り口上であった。
 竹夫が何げなく書いた「太陽と月、どちらも大切。それぞれにいい」という表現がいけなかった。二者択一ではいけない志乃の一途さが、横取りされるのではないかと思い詰める羽目になったのである。
 以来、何十年か疎遠に近い年月が過ぎ、二人ともそれぞれ幸せな結婚をし、子供も出来た。今更、過去を手繰り寄せて懐かしむこともないのだけれど、少しはかつての親友に会ってみたいという気にもなるものだ。
 相談する相手もなく、不登校の子を抱えてみると、手探りのようにそんな気にさせられるのかもしれない。 
 不思議に子育てに苦労なく、難なく超一流大学を卒業させていた志乃には、かつての親友が子育ての相談を持ちかけてくれたことがうれしかった。
 おうおうにして、教育者の子が自分の子育てに失敗するものである。
 東京での教員という定職を擲って、北海道に一家転住、転地療法という最後の手段を取っても、うまくいかなかった光子の、藁をもつかむような過去の親友への打ち明け話だったのである。
 今更、自慢そうに自分の子育ての成功、逆に親が立派過ぎて子育てに失敗している、そのことは棚の上に置かねばならないことだった。
 何がこのような逆転劇にしてしまうのか、分からないことである。
 厳しく追及すれば、納得のいくことではあろうが、二人には分からないことだったし、分かっても、もう手遅れのことだった。
 もう一回子育てをし直すことができれば、孫の教育でやり直すことができるかもしれない。
 不幸なことに、その後志乃の子どもたちは結婚しても子供はさずからなかったし、光子の一人っ子は結婚しなかった。孫自慢をしがちな女友達が多いが、二人はいわば同病相哀れむところだった。ただ二人とも良識のある人間だったので、運命に耐える心がけはあった。
「景子先生は、光ちゃんの叔母さんなの、知っている」と言ってきた。竹夫はちょっとびっくりした。同じ姓だということは昔から分かっていたが、まさか三親等の間柄とは、知らなかった。二人とも一回もそのことを言わなかった。知られたくなかったのか、周知のことで言う必要がなかったのか、それは分からない。
 竹夫がこよなく景子先生を慕い、景子先生も竹夫を大事にしていることを、光子は自分とは関係のないこととして、歯牙にもかけていなかったことになる。
 それより竹夫によって女同士の親友関係が地に堕ち、炸裂し、元に戻らなくなって、それでもひょんなことで、少しは昔に返れたことはうれしいことだった。
  采橋の袂に一里塚がある。正確に言えば、一里塚の立札があるだけで、ほとんどその跡形はない。戦中、ここが飛行場になるとき、この古塚に一本だけ残っていた榎は伐り倒された。戦後はそれを再現するなど思いもよらず、ただ立札だけが辛うじて残っている。
 戦争体験のある者は今や数少なくなって、この前の旧国道を通っても、感慨深く立ち止まる人もなくなった。宿駅も近くにあり、この界隈に旅情を慰める木賃宿があっても、なんの不思議もない。
 弘志はここに生まれ育った。母子家庭であった。遊学の後、その後のことは杳として知れない。知れないまま半世紀が過ぎた。彼は作家として、更にまたいたずらに偏見差別の憂き目で苦しんでいた人権復活を勝ち取った社会派でもあった。容易に受け容れられないことを痛感した彼は、故郷に錦を飾ることなく、斃れ果てた。因襲に塗り固められた古里は温かく迎えてくれなかった。市民権の復活後、死亡届が受け入れられ、以前どおり、亡きもの扱いとなっている。本来ならば、郷土の誇る作家として、川端康成にも肩を並べられる昭和の作家なのである。墓地には本人は元より一家の墓碑は見当たらない。あるのは、彼の作品集だけである。
 故里の原風景を伝える詩が残されている。
      
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燈  明
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      「燈明」 抄
  楠の老木の下の 荒神さんには
  フクロウが啼いていて 怖かった
  ロウソクとマッチを握りしめて
  薄暮の道を必死に走ったものだった
  おじいさんは いま
  あの荒神さんの楠の下蔭の闇がかもした
  途方もなく深い神秘について考えている
 
  闇には神が棲んでいる
  神はエネルギーを消費しない
  だから 闇は地球の救い主
  おじいさんの中の子供は
  いまも 闇を畏敬し
  贖罪の燈明を 捧げ続けているのだった 

 この集落には、荒神さんを祀る祠が五つあって、当番に当たった夕方には、燈明を点火しに回るのが男の子の役目だった。
「怖い」のを辛抱して走って帰った思い出を詠った彼の詩で、今はそのような神秘な体験がなくなっていることを嘆いている。
 景子先生の家の裏にも今なお、その祠が石セメントで固められて遺されている。
 八十年を越える昔の思い出の中にも、燈明のことはほのかに思い浮かべることができる童話の世界のような気がするものだった。
 全ては過ぎ去り、今は静かにお迎えを待つ身の上になっていて、生前戒名をもらって墓碑に刻んでいるが、悟りを開ききれているわけではない。
「兄と同学年でしたから、大体は分かっています。ただ詳しいことは、どうしても言いかねます」と言いよどむのだった。
「死んだことになっていますからね」
最後はこの一句で話は途切れるのだった。身内の者に迷惑がかかると、身を隠して数十年が経っていた。九州の果てにひっそりと棲み、そこで小説を書いていた。
『奇妙な国』… 療養所を小さな国とみなして、その国の奇妙な様態を風刺している。日本国はこの小さな国では滅亡こそが国家唯一の大理想である。日本国は子孫を作らないために男性の精管を切り取ることを条件に衣食住と医療を補償すると明記したのだ。
 郷土から追われるように逃れ来て、隔絶された「奇妙な国」に棲むこと、数十年。自ら何も悪いことをした覚えはないし、誰よりも故里を愛していた彼であった。ただ、事は重大で、世は許してくれない偏見に支配されていた時代を超克するだけの度胸が坐っていない彼は、ここに片意地でも文学で身を立て直す悲壮感で生きていくことになる。
 いつかはきっと誤った国策に挑戦状を突きつけるためにも、したたかに生きていく力の持続が必要だった。
 それがやっと芽を出すには、古き昭和が終り平成の新しい波が寄せる必要があった。率先垂範、固陋なる言われなき差別との血みどろな闘いが横たわっていたことは語り尽くせない。
 一つの時代は終わった。いわれなき差別の一つに過ぎず、特別に拡大解釈することも、誇大宣伝することもない。真摯に世の片隅で生き続け、無念の前半生を取りもどす後半生があまりに短い一生であった。
 今は、かろうじて故郷で心ある人々が寄り集まって命日には丁重な供養をして彼を偲び、差別と偏見のない社会を目指して頑張っている。
 ただ、惜しむらくは、若くして故郷を離れ、大都会に住んでいる光子や志乃には与り知らぬことではある。
 都会に住む大多数の者にも、この事は身に迫った重大問題ではない。限りもなく多くの社会問題、人生問題を抱えて、人々は悪戦苦闘している。

「紫草って、紫色の花咲かせるとばかり思ってた」
「冗談ではないわ、白い花よ、こんなかわいい白い花よ」
「そうだったのね」
 紫(ゆかり)は高校生。誰にも「むらさき」と呼ばれる。ただ一人
「紫のゆかり、藤壺の姪若紫だったね」と初めて担任になった先生に言われた時はうれしかった。世俗に背を向けて生きる古義軒こと正夫である。
「確か、父がそんなことを言っていたように思います」と得意そうに答えた。
 彼女の家の前にある一里塚に繁茂しているのは紫草だ。かつては古木榎が一本あったが、この地が軍用飛行場に転用されるとき伐採されてしまった。その後代りに榎を植えようとする意見もあるが、実現に至っていない。
 昔に遡ることは、必ずしもいいとは限らない。思い出したくない、忘れたいこともある。今では死語となっているものに遊郭がある。カフェがある。ここにそれがあったというのだ。タブーとなっているものを今さらどうしようとするのだ。
 一里毎にあった一里塚休憩所とともに、四里毎に宿駅があって、交通の要衝にもなっていた。讃岐の西端の柞田駅である。それにもかかわらず、確証となる遺物が発掘されているわけではない。 
  宇治川の橋の袂にある宇治橋、そこに宇治の橋姫がいたように、ここにも橋姫がいたかもしれない。この近くには室町末期、俳諧師山崎宗鑑が流れて来ていた。
  貸し夜着の袖をや霜に橋姫御    宗鑑  
 この発句の生まれた場所がここであると言っても、何の不思議もない。
 乞食女とは言わない。借り衣裳とはいえ、着飾った遊女を橋姫とみなす心のゆとりと豊かさ、それがこの橋辺に漂っている。
 この発句に付句していく連句の素養がこの地に根付いていた。当地に建立されている一夜庵の句碑にちなむ、いわゆる「脇起こし」連句の始まりであった。

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  発句  貸し夜着の袖をや霜に橋姫御         宗鑑
  脇     柞田河原の木兎の声             拓志
   第三  駅鈴に飛鳥の文が結ばれて          雅人
  四     和光同塵奢らず暮らす             紫女
    五    月今宵奥の細道夢遥か             景女 
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 至福の季はついに来た。雅人は、紫女、景女とともに三人だけの境地に遊ぶ機会を得た。他に誰も介在することがあってはならない関係だった。理想の教え子、理想の恩師。その二人を両手につなぐことは、自分では至純の、しかし倒錯した恋情だった。師弟関係という名を借りて、それ以上のものであってはならない抑制が効かないほどの危険性を包み持っていた。
 紫の匂へる妹額田への危険な接近をする大海人皇子、少女若紫を密通した義母藤壺の身代わりに溺愛する源氏、両者の名につながる紫。そしてまた、マドンナと言うべき景子先生は優美だった。70年後の姿が現実にはどうであろうと、心から慕っていた先生はそのままとみなしたかった。
「いつか奥の細道の旅に一緒に行きましょうか」と語りかけたことがある。
「歩ける間にぜひね」と簡単に応えてくれたが、そのままになっている。
「紫さんは奥の細道、どう…」と言う雅人のおあいその誘いには乗らない。
「私はここで充分なの。贅沢な旅もいいけど、こっつらと生きたいの。菩提を弔わねばならないし」
「そうだったね、急に亡くなられたものな」
 話は途切れてしまった。ただ「和光同塵奢らず暮らす」の意味は重く深く心に沁み透るものがあった。雅人がそれを見逃すはずはなかった。自分の愛弟子である彼女の謙譲の美徳に惚れ直すのであった。それを言ってしまっては終わりであり、さらりと次の句境に変転していくところに連句の妙味があった。そういうことは熟知している景子先生は、放浪遍歴への仰望を句になさる。