ただ文学には捉われて

       自分史としての文学営為
 俳句も短歌も好きである。小説も随筆も好きである。古典も現代文も好きである。
およそ、文学と名の付くものは皆好きである。選り好みしない。国語学国文学を専攻したので、外国語外国文学は敬遠している。その方に関係する知人友人教師などとは肌が合わない人が多かった。
 大学の先生のように専門分野がなく、特に研究して論文は書いていない。今更それは書けないし、書こうとは思わない。浅く広く、なんでもこなせるような錯覚はある。小学校の先生が全教科を一応教えられるように、高校生・一般教養社会人のために、なんでも教えられる自信はある。半世紀以上それで生活してきたのだから。
 それでも、一応得意としている分野は、古典では『万葉集』「西行」「宗鑑」くらいである。世俗雑文学として「郷土文学碑」の調査、創作としては「俳句」「エッセイ」くらいである。研究的とはいえ、深く追究する根気がなく、安易に概略で終わったり、部分の指摘ですませたりする悪い癖がある。視聴覚、特にビジュアルな説明、資料作成が得意である。デジタルよりアナログを好む。
 資料作成は手書きである。形だけスマートに整えるのは、好みに合わない。泥臭くて、洗練されていなくても、自筆で手作業、手垢の付いたものに味がある。ワープロ、パソコンはやむをえずやっている。ログハウスの作業場で大小の筆で紙に文字を書いている時が、一番楽しい。ポイントの書き抜き、エッセンスのまとめ書き、ひらめきのメモ書き。
 ジャンルは選ばない。『源氏物語』も『徒然草』も『花伝書』も『万葉集』も全く同じ俎上にある。この上なく贅沢な文学の楽しみ方をしている。理解(読解)も鑑賞も、文表現(創作)も作歌・作句も峻別していない。読む楽しみ、作る楽しみがある。
  万葉の歌は全部色紙に歌と絵で描いた。俳句も乱作。推敲しない。大矢数俳諧みたいなもの。振り返らないで、ただ書き付ける。ひらめきがすべて。中にいいものがあるははずだが、それはいつか先の楽しみ。楽しみだけで生きている。
  退職後20年、小学生・中学生・看護学生・一般高齢者に教養国語・文学を教え、共に学ぶ楽しさに満ち溢れている。
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