弓張月



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 滝沢馬琴は『椿説弓張月』の中で讃岐を物語の一つの大きな舞台としている。これは馬琴が主人公源為朝の仕えた崇徳上皇を為朝が思慕し、また為朝を庇護する人物として描いたことからきている。上皇が葬られた白峯や直島を舞台としたもの。
 琴弾八幡宮の由緒は、大宝3年(703)のある日、有明浜一帯に黒雲が立ちこめ3日間暗闇が続き、やがて海上に一艘の船が現れて船中から琴の音が聞こえてくる。民人が近づくと、「われは八幡大菩薩なり、宇佐からきたが、仏法弘布の地によいので」と答えた。日証上人が船に証を求めたところ、海であったところが竹林に、砂浜が蒼松の林に変わった。驚いた日証上人が里人を集めて船を山上に引き上げ、琴を添えて宝殿に安置して琴弾八幡宮と称えた。宇佐とは、全国にある八幡宮の総本社。『椿説弓張月』の中で源為朝の妻・白縫は九州から逃れてきたことになっているが、馬琴は琴弾八幡宮の由緒を知っていたので、琴弾八幡宮を物語の舞台にした。
 ここには為朝の妻白縫が夫の敵討ちをする陰惨な場面がある。敵の武藤太を赤裸にして柱に くくりつけ、十本の指を懐剣で一つ一つ切り落とす。又五寸余りの竹釘をわざと急所をはずして数十本体に打ち込むと、武藤太は息も絶え絶えとなる。

琴弾山山頂には、次のような案内板説明文がある。
 江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白縫が観音寺、琴弾の宮で、夫の仇討ちをしたという話がある。為朝が京の戦いで敗れた時、鎮西太宰府の館を守っていた白縫は召使い八人とともに讃岐観音寺、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていた。 一方京では、破れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめた。その時武藤太は「為朝を捕らえた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は八丈島に流された。 主君を敵方に売った武藤太は、痴れ者として非難され居たたまれなくなって、手下二人と西国に落ちた。 流れ着いたのが讃岐の国室本の港(観音寺室本町)であった。港に上がった武藤太は武運に縁の深い琴弾の宮の近いのを知って参拝した。 祈る言葉は悪人らしく、 為朝密告の恩賞が少なかった恨み言だった。白峰は拝殿に祈る男の言葉からその男が夫の仇だと知ったのである。「これこそ神の導き」と白縫は、ある月の夜酒宴と琴で武藤太を誘い出し、みごと夫の敵を討った。
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