島内裕子著『兼好』

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  本書の内容紹介は次のようになっている。
 兼好(1285年~1352年)鎌倉時代末期の二条派歌人。現実への違和感を持つ孤独な青年兼好は、いかにして人生の達人へと成熟したか。老成した人物という既成のイメージを吹き払い、変貌する精神のダイナミズムを『徒然草』から読み取る。今ここに清新な兼好像を提示する。                 
 …兼好はある意味で未成熟な青年期の兆候を微かに残しながら、徒然草の執筆を開始している。けれども彼は、徒然草を執筆しつつ、みずからの言葉の力によって自分自身の精神を変化・成長させてゆく。このような徒然草の中で生成してゆく生命体としての人間・兼好を描き出したい。そして、日本文学史における徒然草の達成を見届けたい。(中略)兼好は歴史上のある期間を実際に生きて、そして死んでいった生身の人間である。けれども彼は、後世の人々にとって自分たち自身の時代思潮や価値観の代弁者でもあったのだ。歴史上の「兼好」はたった一人の人物であるが、人々が思い描いた「兼好」は何人、何十人、何百人にも上っている。たった一人の固定化した兼好しかいなかったならば、彼の寿命はとっくの昔に絶えていたろう。「兼好」という名跡は、代々受け継がれてゆくことによって、その寿命が絶えることなくむしろ刻々と伸びている不可思議な生命体であった。そして、今現在も私たちの傍らに存在する同時代人である。そのことを実感しつつ、この評伝を書き進めてゆきたいと思う。…(「はじめに」より」)
  1283年頃‐1352年頃。鎌倉時代末期から南北朝にかけての激動期を生きた文学者。神道の家柄である卜部家の出身。若き日に後二条天皇に仕えたが、三十歳頃までに出家。無常の認識と人生の生き方を、とらわれのない目で綴った『徒然草』は、日本文学史上屈指の名品。また、歌人としても活動して、「和歌四天王」の名声を博す。晩年は、古典の書写にも名筆を揮った。
 兼好の『徒然草』といえば学校でいちばん最初に習う古典文学だが、この古なじみが思いがけず新しい顔を見せてくるのに驚く。
 著者は、小林秀雄以来の《物が見えすぎる眼》とか《人生の達人》とかいった決まり文句を排し、兼好(けんこう)がまだ兼好(かねよし)だった青春期の伝記的な空白に迫って、悩み多き《未成年》の内面をよみがえらせる。
 主唱されるのは『徒然草』の連続読みだ。江戸時代にできた序段及び二百四十三段の区分によらず、章段番号を取り払ってその全体を統一的な視野に収める。そうすると、無常観とか教訓性とか後世が作り上げた虚像は薄れ、「つれづれ」の肉感性が生々しく浮かび出てくるのが見える。
 序段とは序奏であり、「ものぐるほし」の楽想を提示する最初のフレーズなのではないか。著者はたくみな演奏家のように『徒然草』をバラバラな断片群ではなく、一定の展開部と再現部をそなえた楽曲として面目を一新している。
                              [評者]野口武彦(文芸評論家)
 一葉はわずか17歳の雑記で「哀(あはれ)、男(をのこ)ならましかば、と託(かこ)つも有るべし」と、わが身の現実を嘆いている。書き出しは『徒然草』の第1段に似て「夫(それ)、人の世に生まれて、願はしかるべきことこそ、いと多けれ」となっている。
第3段「親の諫め、世の謗りを慎むに心の暇なく」に似ている日記は「すべてうき世のそしりも厭はじなど様にさへ思はるるよ」(明治26年5月27日)  持って生まれた洞察力と鑑賞力によって、みずからの思想基盤として徒然草を一葉は血肉化した。
                              (第1章 「精神の近代」より)