鹿持雅澄

    鹿持雅澄  (寛政3年4月27日~安政5月8月19日、享年68歳)
             江戸時代の万葉学者                    
 鹿持雅澄は、土佐に生まれ、その生涯の窮乏にもかかわらず、万葉の学を究めた。明治になって、その大著『萬葉集古義』が宮内省版として公刊された。門下生より土佐勤皇の志士が輩出したことを知る人は少ない。
 『萬葉集古義』は源順以来の万葉先進の研究を集大成したものである。生涯を万葉学の研鑽専念し、137巻の労作にまとめあげた。
 家系 土佐国土佐郡福井村の徒士(かち)、柳村(やぎむら)尉平惟則の長子。
     姓は藤原、忌名は雅澄、通称を源太と呼んだ。古義軒・山齋の号もある。

 時に「土佐の地を一歩も出ずに」と言われるが、記録に残っているもので二十三歳の時金比羅さん参拝していて、土佐一国にこだわることはない。著書として「幡多日記」やいくつかの歌集も残している。全国でも珍しい「愛妻之碑」が高知城内に建てられている。「愛妻之碑」を建てるにあたり選ばれたのは、愛妻家鹿持雅澄の歌である。
  秋風の福井の里に妹をおきて安芸の大山越え勝てぬかも  雅澄
 また、鹿持神社と雅澄の墓所は鹿持邸址から北西を見上げた丘の上にある。自らあつらえたという墓は菊子夫人の墓と仲良く並んでいる。
  あれゆのちうまれんひとはふることの吾がはりし道に草なおほしそ
    余以後将生者古事之吾墾道爾草勿令生曾
                                   (剣持雅澄 記)
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