裏面史に隠された真実


裏面史=物事の隠れた面や世間に知られていない事情に重点を置いて書いた歴史。その反対語としては、「正史」が浮かぶが、この反対語は「外史」「稗史」あたりだろう。
  どうしても、ぴったりの反対語が思い浮かばない。形式的に言えば「表面史」だろうが、そんな言葉は使わないかと思う。「なんでも裏面史があって、そんなものを書くとおもしろいですね。でも、さしさわりがあったりして、書いたりしない方がいいんでしょう。あくまでも『裏面史』とて蔭で話すだけに留めておく方が無難なのではないかな」とも言われる。作家は敢えて書く。真実は暴いても書き残す。止むにやまれない衝動が書く意欲を煽り立てる。これはどうしても書いておかねばならぬという使命感に燃える。どうでもいいようなこと、表面をなぞったような、いわば「皮相的」な書き方に真の読者は文学的評価をしないはずだ。であれば、自分もその意欲・覚悟の上でしっかりと取り組めばいいようなものの、馬齢を重ねて(今風に言えば、加齢のせいで)踏みきれないでいる。
 ただ今日のちょっとした経験から、辿って来た「自分史」の比較的陽の当たる、栄光の部分が《からくり》に左右されていたのだと知らされたのだった。そんなことを書くのが人世の真実を書いたと評価されるのなら、今まで通りにしておく方がきれいなのではないかと、思い直している。
 よって、「本当の裏面史は書かれず、埋もれて逝ってしまう」などと大言壮語するつもりはないが、少しアルコールが入ると、筆がすべり(実はパソコン打つ手が軽くなり)
生半可な知ったかぶりの「裏面史」そのままにしておく論となった。
 (2015年5月27日16時半、敬愛する上司を葬って帰宅、独りの時を楽しみながら)