軍人墓地について

        軍人墓地について

 軍人墓地は地域で戦没者を集めた墓地である。町村単位でまとめている所と区域を狭めた所がある。
  日露戦争日中戦争、太平洋戦争によって形状・内容に違いがあり、簡略化されていく。本名(俗名)が正面に刻まれ、戦没年月日、享年、戦没地が側面に刻まれていると便利であるが、戒名(法名)が正面に、本名が側面・裏面になっていると、不便である。戦没地は、国名だけでなく、州・省くらいまでは記してくれないと、実感が湧かない。「南方諸島」「太平洋上」では漠然としている。あまり必要でないのは、階級・叙勲。親の名前は、当時の親の気持を思い起こせば仕方ないかもしれない。
西讃は当時、三豊郡で、現在の三豊市観音寺市の町村が平等に並んでいた。町村ごとに軍人墓地があったとは言えない。
   観音寺町・大野原村等は、途中で軍人墓地が狭くなり、自分の属する一般墓地に建てるようになった。
仁尾町・柞田村等は十分な広さの墓域が確保された。仁尾軍人墓地は「全国無比」と自ら碑に刻み、「靖国忠魂の碑」と掲げるだけあって、すばらしく模範的な軍人墓地と言える。見知らぬ人が参拝に来てもすぐそれと分かるよう配置図、名札がしたためられている。何より死ねば皆平等という考えが当初から根付いており、日露戦争日中戦争の時から墓石の基準は同じである。戦後すぐ、仁尾は戦没者全員、一人一頁の記録をまとめ、立派な『忠魂録』が編まれている。
 常磐村は墓碑銘が特に詳しく、経歴・軍歴が二面にわたって刻まれている。学歴までは要らなかったかもしれない。
豊田村は石質が粗悪で崩れかってきたので、半数近くの墓石が新しく建て替えられている。
今、軍人墓地は危機にある。墓守がいなくなって、取り払ったり自分の一般墓地に移している。戦後七十年を経て、軍人墓地は歯が抜けるように、一つ減り二つ減りして一割が軍人墓地の碑を消失している。まことに憂慮すべきことではある。
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