徳富蘇峰(猪一郎)の書

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 加地家蔵徳富蘇峰直筆書簡
    啓 過日御箴言
  南洲百書簡
  篤斗有兄付上
  種々疑点有ド
  老生ニ於テハ直
  筆トノ傳於出
  来暫ノ間卒
  愚ニ結論タリヤ
  上ガソノ理由ㇵ冗
  舌ニテ寸楮蔵
  聲候間他ノ機
  会ニ譲りカ候乃
  原書返上
  収め下度
    昭和廿一二月十八
         ・・九十四
   加地先生玉机下
  笠代賜ノ珠柿
  寔ニ好味ニ候
       伊豆にて
[本状趣旨]
本文では、【南洲(西郷隆盛)】の箴言書簡を預かっていたが、これを大切ものなので「返上」しておきたい。疑点はあるが、自分としては「直筆」であるとみる。色々言いたいことはあるが、「寸楮(簡単な手紙)」には書ききれない。いずれ機会があればその時に譲りたい。
追伸では、もらった柿のお礼で、「好味」であったと添書きしている。
【徳富 蘇峰】1863年3月14日(文久3年1月25日)生~1957年(昭和32年) 11月2日没
 明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家 。
(言論人・評論家・史学家) 熊本県生。漢学者・教育者徳富一敬の長男、小説家徳富蘆花の兄。名は猪一郎。通称を菅正敬。号は大江 逸大江 逸郎雅号山王草堂主人頑蘇老人蘇峰学人銑研桐庭氷川子青山仙客伊豆山人など。生前戒名は百敗院泡沫頑蘇居士。
徳富蘇峰逝く・・・・・【熱海】明治、大正、昭和三代を通じての評論家として知られた徳富蘇峰(九十四)ー本名猪一郎ーは、山川、川西、折笠三医師の治療もむなしく、二日午後九時三十三分熱海市伊豆山足川の晩晴草堂で長女三宅逸子さん(六十九)をはじめ近親者や、岸首相の代理として見舞いにきていた堀内代議士、大塚同士社大学総長ら約百名の見舞客に見守られながらついに死去した。
 民友社を結成し、雑誌「国民之友」を発刊。同誌はのちの総合雑誌の先駆となり国木田独歩・蘆花らを輩出する。文化勲章受章。昭和32年(1957)歿、享年94歳。
  神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身、『蘇翁言志録』(1936年)において、ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なりと述べるように、書簡を大切なものと考えていた。蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある。